12月11日 待降節第三主日 マタイ11章2~11節 貧しい人は福音を告げ知らされている

 

今週も洗礼者ヨハネが登場します。しかしこれは先週よりさらに時が過ぎて、イエスが宣教を行い、ヨハネは捕らえられているときのことです。ここではイエスのほうからヨハネに(ヨハネの弟子を通して)救い主の姿を伝える内容となっています。

 

東京にニコライ堂というハリストス正教会の大聖堂があります。その正面にイエスの像が描かれており、王冠をかぶる姿です。これは「王であるキリスト」を表しています。右に洗礼者ヨハネ、これは最後の預言者なので旧約を表し、左に聖母マリアが新約を表しています。これらの三つのイコン(聖画)で旧約・新約・世の終わりという救いの歴史を表しています。その中でヨハネは旧約の時代を終わらせ、新約の時代に引き継ぐ大切な使命を与えられていました。

そのヨハネは、ヘロデに投獄されているときにイエスのもとに弟子を遣わし、「あなたはメシアですか」と尋ねさせました。イエスを救い主として告げたはずのヨハネはなぜ迷いを感じたのでしょうか。先週の福音に書かれているように、ヨハネはメシアであるイエスが、エルサレムからローマ人や傀儡の王、宗教指導者など権力者を追放することを期待していたのかもしれません。しかしイエスは地方を歩いて貧しい人々に宣教を続けていました。死が近いことを悟ったヨハネは死を前にして確認したかったのでしょう。

それに対して、イエスの答えは「体の不自由な人や病気の人が癒され、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」というものでした。これは、イエスの宣教や奇跡の様子を表すものですが、同時に神の国のあり方を示しています。イエスのなさったことは見捨てられている弱い立場の人々が神の国の中心にいるということのしるしでした。これこそが「荒れ野からの叫び」に応えるメシアの姿だったのです。イエスがヨハネに伝えたかったことは、「あなたが荒れ野で叫んでいた(伝えていた)ことは、貧しい人々や体の不自由な人々を通して実現しているのだ」ということだったのだと思います。

イエスは「天の国で最も小さい者でも、彼(ヨハネ)よりは偉大である」と言われます。ちょっと理解に苦しむ言葉です。これは決してイエスによる救いが実現する以前の人(旧約時代の人)が天国に入れないという意味ではありません。ヨハネは聖人ですしね。

マタイの福音書の「天の国」は「神の国」のことです。旧約時代を代表するヨハネはイエスがもたらした「神の国」の準備の時代に生きる者であったことに対して、イエスが来られてからの時代(新約時代)の人々は、この世で神の国の福音を神の子である方から直接に告げ知らされました。そのことを「偉大」と表現されているのです。

 

今年もコロナの中で待降節を過ごしています。わたしたちもこの世で苦しみの叫びをあげることもあるでしょう。しかし、わたしたちは今もイエスの福音が告げ知らされていることを希望をとして、神の国に向けての歩みを続けることができるのです。(柳本神父)