12月18日 待降節第四主日 マタイ1章18~24節 インマヌエル―ともにいる神

 

いよいよ来週に主の降誕を迎えます。それで待降節最後の主日の福音はイエス誕生に至る出来事が選ばれています。今年の典礼暦年はA年なので、今日はマタイによる福音が朗読されます。

マタイの福音はユダヤ人キリスト者に対して記されたものと考えられています。彼らは旧約聖書の伝統から救い主の到来を考えます。そのため、救い主はダビデの子孫であるということが重要になります。それでダビデの血筋にヨセフがあることを最初の系図で記し、そのヨセフの家からイエスが生まれたということが強調されているのです。ですから、イエスの誕生もヨセフの立場から記されています。

 

今日の福音はマリアが聖霊によって身ごもったことを知らされる場面です。いわば「受胎告知」ですが、マタイの福音ではお告げはヨセフになされます。それも夢の中です。わたしはよく夢を見ますが、ある程度の内容を覚えています。最近はなぜか教会の行事(中高生の合宿など)で外泊する夢をよく見ます。夢でも仕事していますね。もちろん、銭湯に行く夢もよく見ますが、探し回っている夢が多く、見つけても入る前に目が覚めて悔しい思いをすることがあります。でもヨセフの夢は幸いな夢で、しかも正夢でした。

しかし、すでに身ごもっていたマリアと一緒になるのは厳しい現実を受け入れることでした。聖霊によって身ごもっているとはいえ、まわりの人々はそんなことは知らないからです。おそらく、近所の人たちはふしだらな女性と恥知らずの夫という目で見たのではないでしょうか。それでもヨセフは神のお告げを受け入れました。

天使は「その子をイエスと名付けなさい」と告げました。「イエス」はイスラエルの名前では「ヨシュア」です。その名前は「主は救われる」という意味だそうです。

ここでイザヤ書が引用され、「その名はインマヌエルと呼ばれる」という言葉が出てきます。京都教区の福岡神父の洗礼名は「インマヌエル」なので、この箇所を読むとついつい彼を思い出して祈ってしまいます。印象的な洗礼名は得かもですね。それはともかく、「インマヌエル」は「わたしたちとともにいる神」という意味です。マタイの福音書はイエスが昇天の前に言った「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」という言葉で結ばれています。これこそ、ともにいる神、インマヌエルです。つまり、マタイの福音書は「インマヌエル」で始まり、「インマヌエル」で終わる福音だということです。

 

来週、わたしたちが誕生をお祝いする救い主は「ともにいてくださる神」です。ヨセフも厳しい現実を、神がともにいてくださることに信頼して与えられた使命を果たしました。わたしたちも現実の苦しみを、ともにいてくださる主とともに耐え忍ぶことができますように。感染症の流行や戦争、分裂の苦しみにある世界を、ともにいてくださる主がいつくしみのうちに導いてくださいますように。               (柳本神父)