12月25日 主の降誕(日中) ヨハネ1章1~18節 ことばはわたしたちの間に宿られた

 

主の降誕(クリスマス)には夜半、早朝、日中の三つの典礼が行われます。奈良ブロックのように教会の数に比して司祭が少ないところでは全教会ですべての典礼を行うことができません。それで早朝のミサは行いませんが、今年は25日が日曜日ですので全教会で日中のミサを行うことになりました。

 

以前、アメリカ人の神父さんと働いていたとき、朝9時の日中のミサを「朝なのに日中というのはおかしい」と理解してもらえなかったことがありました。それでミサの案内に「朝のミサ」と書いた憶えがあります。たしかに午前中を日中というのには違和感がありますが、12月25日に複数回のミサが行われる教会では、朝一番のミサを早朝のミサ、それ以降のミサを午前中でも夜でも日中のミサとして行うことになっています。今年も午後にミサをする教会がありますが、文字通り「日中のミサ」ですね。

その日中のミサでは、毎年ヨハネの福音が朗読されることになっています。「はじめに言があった」で始まるヨハネ福音書の書き出しの部分です。昨日のプリントで「降誕の出来事はマタイとルカに記されている」と書きましたがヨハネでは具体的には記されていません。その代わり、今日の朗読箇所が主の降誕を象徴的に表す箇所となっています。

「言(ことば)」はもちろん主イエスです。イエスが神のみことばを伝えられた方、という意味が込められています。その「言」について「初めに言があった」と記されています。これは御子も最初から存在したことを表しており、父なる神と一体だということです。しかし、「万物は言によって成った」というところはちょっとわかりにくいですね。たしかに神は天地創造の際に「光あれ」というような言葉をもって創造されますが、それ以上の意味があるようです。それは、言である御子は、父とともに万物を創造されたということを表しているという意味だと考えられます。

今日の第二朗読には、「御子を万物の相続者と定め」とあります。コロサイ人への手紙1章16節にも「万物は御子によって、御子のために造られました」と書かれています。「相続者」「御子のために」とはどういう意味でしょうか。かわいい息子や娘のために立派な家や財産を残す親バカのようにも思えますが、もちろんそのような意味ではありません。

 

神が三位一体でいらっしゃるのは、そこに救いのわざがあるからです。わたしたちの世界をあがなうために御子がこの世に来られ、聖霊によって神の国へと導かれます。三位一体の神秘はわたしたちを救うための神秘なのです。

御子が万物の相続者であるというのは、万物が御子にゆだねられたということです。そして、被造物であるわたしたちも万物の一部ですから、わたしたちも御子にゆだねられているということです。これほど幸いなことがあるでしょうか。そのようなわけで、わたしたちも御子にすべてをゆだねることができるのです。          (柳本神父)