12月4日 待降節第二主日 マタイ3章1~12節 荒れ野からの叫び

 

先週から始まった待降節、今日は第二主日ですが、洗礼者ヨハネが現れていよいよクリスマスが近いという雰囲気になりますね。もちろんヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていたのはイエスが生まれた後なので、時系列は前後しています。けれどもメシアの到来を告げるヨハネの言葉を聞くことは降誕を準備する待降節にふさわしいといえるでしょう。

 

洗礼者ヨハネは最後の預言者と呼ばれています。預言者は啓示を受けて神の言葉を人々に伝える役割をする人のことですが、なぜ「最後」なのかというと、このあとイエスご自身が神の言葉を告げられるからです。ヨハネは荒れ野で救い主の到来を告げ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。本来ならば聖地エルサレムで神の言葉を告げるべきでしょう。しかし彼は、多くの人が集まるエルサレムの神殿ではなく、人里離れた荒れ野から人々に宣べ伝えました 。ここには二つの意味があります。まず彼は、厳しい自然の中で神との対話を求める修行者的な生き方を求めたこと。そして、聖地エルサレムには富と権力が集中し、腐敗していたことがあります。それで彼は聖地エルサレムを離れて荒れ野で宣べ伝えたのでしょう。

今日のヨハネの言葉の大半はファリサイ派やサドカイ派の人々に対する批判、そして後から来られる方=救い主は脱穀場を清める方であることを伝えています。「手に箕を持って」とありますが、「箕」は脱穀に用いる用具です。日本ではちょうど安来節の「どじょうすくい」で使うざるのような形をしていますが、イスラエルではどのような形をしているのか、わたしはわかりません。いずれにしても、実と殻を振り分けるためのものです。脱穀の際には実を残し、殻は不要なものとして焼いてしまいます。つまり、ヨハネは「後から来られる方は、神の怒りをもって厳しい裁きを下される方だ」と言っているようです。

実際、ヨハネが指し示した方であるイエスもファリサイ派やサドカイ派の人々に対しては厳しい態度で接する方でした。しかし、ヨハネが言っているように、罰を下して滅ぼしてしまうような方ではありませんでした。その意味ではヨハネの期待する救い主のイメージとは異なっていたかもしれません。自分自身にも厳しい生活を課していたヨハネは、救い主にも厳しいイメージを抱いていたのでしょう。(そこからくるヨハネの迷いについては来週の福音で表されています)。

 

しかし、「悔い改めよ。天の国は近づいた」というヨハネの言葉はイエスの宣教の初めの言葉(マタイ4章17節)と同じです。ヨハネは荒れ野で悔い改めを告げ知らせました。そしてイエスは貧しい人々に福音を告げられました。「荒れ野」は、役に立たないと人々から見捨てられた土地です。「荒れ野からの叫び」は見捨てられた人々―貧しい人、体の不自由な人、罪びととみなされた人など―の叫びと重なります。そのような人々の叫びに応えて、イエスは神の国の福音を伝えられたのです。          (柳本神父)