1月9日 主の洗礼 ルカ3章15~16、21~22節  あなたはわたしの愛する子

イエスは洗礼を受けられて宣教生活に入られました。年間はイエスの宣教生活の記念ですから、主の洗礼の主日で降誕節は終わり、年間へと続きます。今年はルカによる福音を通してイエスの洗礼の出来事を思い起こします。

初代教会で、イエスは神か人間かという議論が起こったとき、「人間として生まれたが洗礼を受けたときに神の子となったのだ」と考える人たちがいました。「これはわたしの愛する子」という声が聞こえたときから神の子となったという解釈でした。しかし、イエスはヨハネの福音書の最初に記されているように、「初めに言(ことば)があった」という方であり、神として生まれた方であったということが教会の教義として確認されました。もちろん、イエスは神であると同時に人間としてお生まれになったのです。

ではなぜイエスは神であるのに洗礼を受けられたのでしょうか。そして、洗礼者ヨハネの授けていた洗礼は、救い主を迎えるための「悔い改めの洗礼」でした。それならば神であるイエスが悔い改められるのはおかしいと思いませんか。

たしかに「悔い改め」というと「悪いことを悔い、生き方を改める」というイメージがありますが、イスラエルのことばでは「悔い改める」は単に「向きを変える」、あるいは「場所を変える」と言った意味だそうです。それで、神のほうに向きを変え、神の光のあたるところに場所を変えることによって新しい生き方が与えられるということになります。イエスが洗礼を受けて宣教生活を始められたのは、生活の場所を変えられた、ということでもあります。その節目に当たってイエスは洗礼を受けられたのではないでしょうか。

ヨハネの授けていた洗礼と、わたしたちが受ける秘跡としての洗礼は違うものですが、イエスの洗礼の際に起こった出来事は、洗礼の本質を表しています。「天が開け、聖霊が降る」ということは聖霊を通して神とつながるということです。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天の声は、洗礼を受ける者が神の子として生きるようにという神からの呼びかけであるといえます。

 

洗礼は「神さまの子どもとなる秘跡」であると説明されますが、正確には「神さまの子どもとして生きるための秘跡」であるということができます。わたしたちは神からいのちをいただいているのですから、洗礼を受ける前から神さまの子どもです。イエスも洗礼を受ける前から神の子でした。しかし、洗礼を受けられてからはご自分の神の子としての使命を自覚し、それを果たすために宣教中心の生活に移られたのです。

わたしたちも、洗礼を受けて神さまの子どもとしての生き方を自覚します。幼児洗礼の場合は親が神さまの子どもとして育て、「あなたは神さまに愛されている」ことを伝えていきます。「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という声はわたしたちにも呼びかけられているのです。                      (柳本神父)