10月1日 年間第26主日 マタイ21章28節~32節  神の国の跡継ぎ

 

イエスは受難を予告されたのち、マタイの21章ではいよいよエルサレムに入られます。神殿の境内でイエスは祭司長や長老と論争されるのですが、今日の箇所もその続きとなっています。ですから、今日のたとえも彼らに対して語られたものと考えられます。

 

お父さんと二人の息子、というと放蕩息子のたとえ話を思い出します。そちらのほうは弟の方が回心する罪びとでしたが今日のたとえ話では逆になっています。ちょっと前の日本では(現代でもそういうところはあるかもしれませんが)跡取りである長男は優遇され、それに対して次男三男は家を出て仕事を探さないといけないという冷遇される立場でした。イスラエルでも同様に兄と弟で立場が全く違いました。それで世界中の昔話には、冷遇されるかわいそうな弟のほうが幸せになるというパターンが多くみられるようです。放蕩息子のたとえ話も同様です。

前にも書きましたが、わたしは兄なのでそのように弟が主人公の物語が多いのがちょっと不満でした。放蕩息子も最初は弟が悪者ですが、結末ではお兄さんが非難される立場です。それで今日のたとえ話ではお兄さんのほうがいい人なのでちょっとうれしかったです。でも話の趣旨から考えると祭司長や長老のほうが跡継ぎである兄の立場にふさわしいように思うのですがいかがでしょうか。

今日のたとえ話を聞くと「不言実行」という熟語を思い浮かべます。「口先ではなく実行するかどうかが大切だ」ということですね。たしかに弟は色よい返事をしたのに実行せず、兄は口では拒否しましたが実行したわけです。けれども、この話のポイントは「あとで考え直して」というところにあるのではないでしょうか。

「あとで考え直した」兄は徴税人や娼婦を表しているということです。徴税人はユダヤ人でありながらローマ帝国の手先となって通行税を、ときには暴力的に取り立てていた人で、罪びとの代表のような存在でした。娼婦については言うまでもありません。彼、彼女らはユダヤ社会からは排除され、見捨てられていた人々でした。

洗礼者ヨハネは「だれでも回心すれば神のもとに行くことができる」と宣べ伝え、そのしるしとして洗礼を授けていました。イエスのことばから、徴税人や娼婦も含めて多くの人々が悔い改めの洗礼を受けたことがわかります。それに対して祭司長や長老などの指導者の人々は、「自分たちは回心の必要がない」と思っていたようです。

 

イエスはここでヨハネの示した義の道は、神の国の福音であると教えています。「回心して福音を信じなさい」という宣教のはじめのことばがここに表わされています。イエスが徴税人や娼婦を兄の立場にたとえたのは、お父さん(父である神)の家、つまり神の国の跡継ぎであることを表しているのかもしれませんね。わたしたちも神の国のあとを継ぐ者として、みんなを招き入れるように呼びかけられています。      (柳本神父)