10月15日 年間第28主日 マタイ22章1節~14節  主の婚宴の招きに応える

 

今日の箇所も先週の少しおいて続きです。21章の最後は先週のたとえの結びの部分です。今日のたとえも祭司長や長老をはじめとするユダヤの指導者に向けて語られています。今回はぶどう園の話ではありませんが、内容が共通するたとえ話です。

 

「宴会」は聖書では「神の国」(マタイでは天の国)を表すのに使われます。ラザロと金持ちのたとえ話もそうです。それであの世の「天国」のことと考えられることもありますが、むしろ神とともにいる世界であると考える方がいいでしょう。さらに、「婚宴」は結婚の宴ですから、神と人が結ばれるというイメージで語られています。伝統的に教会は「キリストの花嫁」と呼ばれています。これは、キリストと結ばれている教会が、人類すべてをその交わりに招くという意味があります。

今日の福音でも人々は婚宴に招かれています。同じたとえ話はルカ14章にもありますが、そちらは婚宴ではなく宴会とされています。マタイは「王が王子のために婚宴を催した」ということで父とイエスの関係を強調したのでしょう。また、マタイでは王の家来が殺されてしまいますが、これは先週の福音の跡取り息子が殺される内容と共通しています。ただしここではイエスの受難は象徴されていないようです。でも王子の結婚が無視されているので見捨てられた神のひとり子のイメージがここに表されているとも考えられます。

いずれにしても、彼らは王の招きを無視し、婚宴に参加しませんでした。二人は自分の仕事を優先しています。それでイエスは「神さまのことより自分のことを優先してはだめですよ」と教えられているように思えますね。さらにキリストの婚宴といえばやはりミサですから、「なにかと理由をつけてミサをさぼってはいけませんよ」さらには「日曜日に仕事をしてはいけません」と言われているように考える、あるいは教えられているかもしれません。もちろんミサも大事ですが、イエスの言いたかったことはもっとほかにあったのではないでしょうか。

やはりこのたとえは先週のたとえとの関係を考えると、エルサレムの宗教指導者に対し、「自分たちは神から招かれていると思っていても、神の思いに反していると、ほかの人々(貧しい人や罪びと、異邦人)のほうが神の国に先に入る」という趣旨で語られたと思われます。苦しむ人を見捨て、罪びとを排除することは神の思いではない、ということです。

 

最後に礼服を着ていない人が放り出されるという部分があります。町を歩いていていきなり招かれて来たのに、礼服を着ていないと責められるのはいかにも理不尽です。そりゃあ着ていないですよね、普通は。それで11節以下は本来とは別の箇所がここにつなげられたと考えられています。その場合の「礼服」は神の招きにふさわしい心のことです。それはイエスが言われた「たがいに愛し合いなさい」という教えに従う心であるといえます。わたしたちも神の思いに応える心をもって、主の婚宴に向かいましょう。 (柳本神父)