11月12日 年間第32主日 マタイ25章1節~13節 花婿イエスとの出会いを待つ

今年もいよいよ年末が近づいてきました。典礼暦の終わりである「王であるキリストの主日」を控えて最後の三つの主日は「終末主日」とも呼ばれています。それで今日の福音も終末を準備する内容となっています。

今日のたとえは花婿を迎える女性たちのお話です。当時の結婚式の事情を知らないとちょっとわかりにくいかもしれません。少し説明しますと、結婚式は夜中に行われ、花婿は花嫁を迎えに行きます。花嫁は友人とともに実家で待ちます。花婿が来ると花嫁はたいまつを持った友人に伴われて花婿の家に行き、そこで婚宴が行われます。ですから、宴会場は花嫁の家ではなくて離れたところにある花婿の家です。きょうのたとえでは花嫁の友人にあたる十人のおとめが主人公です。
十人のうち五人はたいまつの油を用意していなかったので婚宴に参加することができませんでした。わたしは子どものころ、明日の学校の用意は夜のうちにしておきなさい、とよく言われたものです。それで今でも「明日は○○教会のミサのあと納骨、帰りにスーパーで買い物と○○湯でお風呂だから、祭服と聖水と、お風呂セットと着替え、エコバッグとポイントカード、入浴券」など、前日に用意するようにしていますが、入れたつもりで忘れたり、いったん出してそのままにしたりということも多いです。年のせいかそれとももともとうかつな性格だったのか…。
「婚宴」は10月15日の福音にもあるように神との交わり、神の国を表しています。このたとえでは宴の主役である花婿は神の国の主役であるイエスを表しており、花婿の到着は世の終わりの到来の象徴です。初代教会においては世の終わりは近いと考えられていました。しかし、その時はいつか分からないと言われていました。きょうのたとえでも花婿がいつくるかはわからないので、花嫁と友人たちはいつも用意して待っているように、ということが教訓となっています。それでイエスも「目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われたのです。

イエスは「目を覚ましていなさい」と言われますが、たとえでは賢いおとめたちも待ちくたびれて眠ってしまいます。たとえと結論が違うようですが、大切なのは「用意している」ということなのでしょう。眠ったとしても油を用意していたら、花嫁と一緒に行くことができたからです。
わたしたちにとって「用意している」とはどういうことでしょうか。世の終わりがいつ来てもいいように四六時中お祈りして待っていることは無理です。むしろ、わたしたちに必要なのは、日常生活におけるイエスとの出会いのための用意です。普段の生活を送っていながらも、イエスとの出会いを待つ思いを心の片隅に持っていることが必要なのではないでしょうか。                           (柳本神父)