11月19日 年間第33主日 マタイ25章14節~30節 使うために預けられる

 

今日は終末主日の二週目です。福音は「タラントンのたとえ」で世の終わりの迎え方を表していますが、同時に神のわたしたちに対する思いを伝える内容となっています。

 

このたとえと同様のものがルカ福音書19章にもあります。こちらは「ムナのたとえ」で、「タラントンのたとえ」と違う点は、ムナは同じ額が与えられています。それとくらべると不公平なように思いますが、額の多い少ないにとらわれるのではなく、人間に与えられているものはそれぞれ違いがあることを表していると考えることもできるでしょう。

この人たちの中で一番お金を大事にしていた人はだれでしょうか。金額的には5タラントン預かった人ですが、当然商売にはリスクがあります。仕入れた物が売れなくて預かったお金を減らしてしまう、あるいは失ってしまう、さらには借金を背負うことさえあります。主人は「銀行に預けたらよかった」と言いますが、当時の銀行も安全ではなく、お金を失うリスクもあったそうです。その可能性を考えると、土に埋めておいた人は最も預かったお金を大事にしたといえるのではないでしょうか。

ではなぜ主人はこのしもべを叱ったのでしょう。たとえ話の「主人」はいつも父なる神、あるいは御子です。わたしたちが神さまから預かるものは何でしょうか。もちろんお金ではありません。いのち、人生、知恵、心、能力、そして愛。それらのものはしまっておくために与えられたものではありません。この世を生きるために与えられたものです。

お金を使う、また儲けるためには人とかかわらなければなりません。商売は人とのやり取りです。ときにはだまされてしまうこともあるでしょう。他の人と話しているすきにお金を盗まれてしまうかもしれません。けれども、そのような経験にはさまざまな学びがあります。失敗からもいろいろな人がいるという現実を学びます。そしてお客さんに喜んでもらったときの喜びなど、うれしい出会いも経験します。

昨年、御所の街中で長らく閉店していた銭湯「宝湯」が復活しました。受け継いだ若いオーナーにはいろいろ苦労があったようですが、浴室に貼ってあった1周年のメッセージに「お客さんの笑顔に、ほんとうに風呂屋をやってよかった!と思いました」とありました。ここにイエスのたとえの答えを見た思いでした。

 

1タラントン預かった人はそれを失うリスクを恐れるあまり、使うことを否定してしまいました。主人は損をしたとしても、預けたお金を使ってほしかったのです。

わたしたちの人生では人とかかわることによって喜びがありますが、同時に苦労や悲しみもあります。また、わたしたちには人とかかわることによって罪を犯すリスクがあります。けれども、神さまがわたしたちにいのちを与えられたのは、神の愛をおたがいに分かち合うためです。人とのかかわりには勇気がいりますが、神さまは信頼してタラントンを預けられました。「さあ、みんなのために使いなさい」と。       (柳本神父)