11月5日 年間第31主日 マタイ23章1節~12節 神の愛を隔てる壁はない

 

イエスはファリサイ派をはじめとする指導者の質問に答えたあと、群衆と弟子たちに語られます。律法学者やファリサイ派の人々に対する批判ですが、現代のわたしたちに対する戒めであるともいえるでしょう。

 

ファリサイ派の人々はとてもまじめで宗教に熱心な人々でした。それは非難されることではありません。なのでイエスは「彼らの言うことは、すべて行い、また守りなさい」と言われます。けれども彼らは言うだけで実行しないと言われます。言うだけのリーダー、まさに「言うだけ番長」ですね(こんな古いネタ、だれがわかるのでしょうか)。しかし彼らは「いや、われわれは律法の規定を実行している」と言うでしょう。しかし先週の福音でも言われている通り、彼らは律法の細かい規定にとらわれて、重要なおきてであるはずの隣人愛を実行していなかったのです。

「言うだけ」というのは、「背負いきれない重荷を載せても手を貸さない」ということだ、とイエスは指摘されます。たしかに彼らは律法の規定を守り、実行していましたが、ほかの人にはそれをするように命じるだけで守れるように手助けはしないということです。むしろ、自分たちが守っているのを誇るためにほかの人には守ってほしくないとさえ思っていたのかもしれません。自分を高めるために人の欠点を探すのも人間の醜い傾向ですね。彼らにとっては「人とくらべて自分は立派だ」ということが大事だったのでしょう。

さらに、彼らは人から見てもらうように服装や聖句の箱を目立つようにし、「先生」「教師」と呼ばれることを好むということです。プロテスタントの牧師が「先生」と呼ばれているのでわたしもときどき「先生」と呼ばれますが、よく言われるように「先ず生きてる」ということかな、くらいには思っています。でも彼らは人から尊敬されるのを求め、それを誇りにしているということですね。

イエスがファリサイ派の人々を非難されたのは、そのように人を「偉い人」と「ダメな人」に分け、自分たちは「偉い人」に入っていると考えていることです。自分たちで勝手に人間の価値を決めているというわけです。イエスは神の福音を告げるとき、そのような人を分け隔てている考えを否定しました。神は罪びとも病気の人も、体の不自由な人も貧しい人も、ユダヤ人も異邦人も分け隔てなく愛されているということを伝えられたのです。

 

このようなファリサイ派の人々の考え方はわたしたちにもあてはまります。自分と人を比べて「あのような人間でなくてよかった」と安心したり、「自分はあの人とくらべてダメな人間だ」と落ち込んだりします。ネット上では犯罪者や加害者を上から目線で非難します。批判は必要ですが、そこには自分はそんな人間ではないという思いが働いているのではないでしょうか。神はどんな状況にあってもわたしを愛し、導いてくださいます。そこには人を隔てる壁はないのです。                  (柳本神父)