12月31日 聖家族 ルカ2章22節~40節 すべての家族は聖家族である

 

2023年最後の日、大みそかは日曜日です。マリアとヨセフの夫婦に子どもが生まれて家族となったので、クリスマスの次の主日に聖家族を記念します。3年ごとの周期でそれぞれ違う福音が読まれますが、今年は神殿奉献の箇所です。来週が主の公現で博士の来訪の箇所なので時系列的には前後しますが、いずれの朗読もイエスの私生活時代のエピソードをもって祝われます。

 

家族が神殿にやってきたのは、律法の規定によって長男を神殿に奉献するためでした。日本でも氏神さんにお参りする習慣があります。「お宮参りはひと月め、桃が咲いたら初節句」という歌を思い出しますね、って何のCМだったかな?相変わらず古い話題ですみません。今日の箇所では律法の規定が強調されていて、両親が律法を固く守っていたことがうかがえます。これは信仰熱心であったしるしでもありますが、イエスが旧約から新約へ新しい時代を開く方であることを表していると考えられます。

神殿では二人の老人と出会います。一人はシメオンという人です。この人は正しく信仰厚い人で、救い主を待ち望んでいました。そしたら霊の導きによって願いがかないました。ということは、羊飼い、博士に続いて三番目に幼子に出会った人ということですね。ひと月ほど後になりますが。そしてシメオンは神を賛美し、家族を祝福します。しかし彼は同時に幼子と母を待ち受ける苦難の運命について語ります。シメオンはイエスの受難をすでに知っていたのでしょうか。聖霊によって知らされていたのでしょうか。あるいは聖金曜日に読まれるイザヤ書52~53章に述べられている「苦難のしもべ」こそが救い主のほんとうの姿であることを悟っていたのかもしれません。いずれにしても彼は、ほんとうの救い主はイスラエルの現実の王位に就く者ではないことを知っていたのでしょう。

もう一人は女性で、アンナという人でした。この人はやもめで身寄りのない立場ですが、まわりの人々に世話を受け、祈りの生活を送っていたと思われます。修道生活の原型といえるかもしれません。アンナは四番目に幼子に出会った人ということになります。彼女は幼子のことを人々に伝えました。洗礼者ヨハネは最後の預言者と呼ばれますが、彼女はヨハネより前に救い主の訪れを告げたので「最後から二番目の預言者」ですね。

 

聖家族というと信仰熱心で家庭円満な家族で、わたしたちの模範というイメージがあります。しかし、「家族」は家庭だけではありません。シメオンもアンナもおそらく一人暮らしだったと思われます。でも救い主である幼子の家族です。また、血のつながった家族にもさまざまな形があります。マリアは結婚前に身ごもり、息子は死刑囚となったヨセフの家族も世間的には奇異の目で見られていたと思われます。それが「聖家族」と呼ばれているのはすばらしいことです。「聖」は神とつながっていることを意味します。すべてのいのちは神から与えられているので、どのような家族も聖家族なのです。 (柳本神父)

12月31日 聖家族 ルカ2章22節~40節 すべての家族は聖家族である

 

2023年最後の日、大みそかは日曜日です。マリアとヨセフの夫婦に子どもが生まれて家族となったので、クリスマスの次の主日に聖家族を記念します。3年ごとの周期でそれぞれ違う福音が読まれますが、今年は神殿奉献の箇所です。来週が主の公現で博士の来訪の箇所なので時系列的には前後しますが、いずれの朗読もイエスの私生活時代のエピソードをもって祝われます。

 

家族が神殿にやってきたのは、律法の規定によって長男を神殿に奉献するためでした。日本でも氏神さんにお参りする習慣があります。「お宮参りはひと月め、桃が咲いたら初節句」という歌を思い出しますね、って何のCМだったかな?相変わらず古い話題ですみません。今日の箇所では律法の規定が強調されていて、両親が律法を固く守っていたことがうかがえます。これは信仰熱心であったしるしでもありますが、イエスが旧約から新約へ新しい時代を開く方であることを表していると考えられます。

神殿では二人の老人と出会います。一人はシメオンという人です。この人は正しく信仰厚い人で、救い主を待ち望んでいました。そしたら霊の導きによって願いがかないました。ということは、羊飼い、博士に続いて三番目に幼子に出会った人ということですね。ひと月ほど後になりますが。そしてシメオンは神を賛美し、家族を祝福します。しかし彼は同時に幼子と母を待ち受ける苦難の運命について語ります。シメオンはイエスの受難をすでに知っていたのでしょうか。聖霊によって知らされていたのでしょうか。あるいは聖金曜日に読まれるイザヤ書52~53章に述べられている「苦難のしもべ」こそが救い主のほんとうの姿であることを悟っていたのかもしれません。いずれにしても彼は、ほんとうの救い主はイスラエルの現実の王位に就く者ではないことを知っていたのでしょう。

もう一人は女性で、アンナという人でした。この人はやもめで身寄りのない立場ですが、まわりの人々に世話を受け、祈りの生活を送っていたと思われます。修道生活の原型といえるかもしれません。アンナは四番目に幼子に出会った人ということになります。彼女は幼子のことを人々に伝えました。洗礼者ヨハネは最後の預言者と呼ばれますが、彼女はヨハネより前に救い主の訪れを告げたので「最後から二番目の預言者」ですね。

 

聖家族というと信仰熱心で家庭円満な家族で、わたしたちの模範というイメージがあります。しかし、「家族」は家庭だけではありません。シメオンもアンナもおそらく一人暮らしだったと思われます。でも救い主である幼子の家族です。また、血のつながった家族にもさまざまな形があります。マリアは結婚前に身ごもり、息子は死刑囚となったヨセフの家族も世間的には奇異の目で見られていたと思われます。それが「聖家族」と呼ばれているのはすばらしいことです。「聖」は神とつながっていることを意味します。すべてのいのちは神から与えられているので、どのような家族も聖家族なのです。 (柳本神父)