4月9日 復活の主日(日中のミサ) ヨハネ20章1~9節 朝の光の中で

 

 復活徹夜祭に続く日曜日のミサは「日中のミサ」と呼ばれます。朝に行われても日中のミサです。このミサでは例年ヨハネの福音が朗読されます。婦人たちの知らせで駆け付けたペトロとヨハネが、墓の中が空っぽであったことを確認する内容となっており、徹夜祭と同じ出来事の別バージョンです。徹夜祭と内容も似ているし、今日の分はいいかな、とも思ったのですが、日中のミサの聖書と典礼も出ていることですし、昨晩とは少し視点を変えて記すことにしました。

 

「日中のミサ」ではありますが、ここに記されているのは早朝の出来事です(それを言うなら徹夜祭も同じですが)。昨晩と同じような内容ですが、まだ天使は登場しません。マグダラのマリアがイエスと出会うのも今日の箇所に続く部分です。その意味では、昨晩から時間が戻っていることになります。

復活祭の福音なのにイエスはまだ登場していません。ミサは主の復活をお祝いする宴のようなものですから、今日のことばの祭儀においては主人公が不在のままお祝いをしていることになります。けれども、このときにはすでにイエスは復活されています。何よりも取り除けられた石、空の墓、イエスを包んでいた亜麻布がそのことを示唆しています。婦人たち(ヨハネの福音ではマグダラのマリアのみ)や弟子たちにとって主の復活の体験はそこから始まったのでした。

とはいえ婦人たちや弟子たちは、この時点ではまだイエスが復活したことを信じることができませんでした。マグダラのマリアも遺体が盗まれたと思い込んでいます。しかし、ペトロとともに駆け付けたもう一人の弟子(ヨハネといわれている)が墓に入って、「見て、信じた」ということです。彼はイエスの復活を確信したのでしょうか。おそらくは墓の中が空っぽだったのを確認した程度だったのでしょう。けれども、「信じた」ということばの中に復活への希望が込められているように思えます。

わたしはこの復活の朝の福音が好きです。太陽の光が射し始め、小鳥が鳴き始めた早朝に、空の墓に駆け付けた婦人たちや弟子たち。イエスはいないけど、何かが起こっている。それも希望を与える何かが。そのような光景が浮かび上がってくるように思います。明けない夜はない。たとえ闇夜を歩き続けていても必ず朝日が昇ってくる。そのような希望に満ちあふれた朝の光景なのではないでしょうか。

 

日本の社会ではイエスが復活したことはほとんど知られていません。けれども知られていなくても確かにイエスは復活されたのです。マグダラのマリアも弟子たちも知らないうちにイエスは復活されていました。復活のイエスに出会ったわたしたちはそれを伝える使命があります。行きましょう、主の復活を告げ知らせるために!     (柳本神父)