2月19日 年間第7主日 マタイ5章38~48節 わたしが嫌いな人も父は愛される

 

今日の福音も山上の説教の一部とされているもので、先週の「律法」や「昔の人の教え」に対するイエスの教えです。今週はとくに「敵を愛しなさい」という教えが語られます。そして父なる神がどのような方であるかを伝えられるのです。

 

今日の箇所の「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」とい教えは一般にもよく知られています。それでキリスト信者に対して、「俺がお前の右の頬を殴ったら左の頬を出せるのか」などと使われることもあるようです。一般には「無抵抗主義」を勧めているとして、現実的ではないと否定的にとらえられることも多いでしょう。

さらに「敵を愛しなさい」とイエスは言われます。「敵」というとまず戦争で戦っている相手を思い浮かべます。たとえば映画「戦場のメリークリスマス」のように、敵味方を超えた友情といったものを思い浮かべるかもしれません。たしかにそれは感動的なストーリーかもしれませんが、自分の現実から離れた場面なので安心して見ていられるのです。

では日常の現実において敵とはだれでしょうか。イエスの話にあるように、わたしに危害を加えようとしている人です。もちろん自分を守るために警察に相談する、あるいは法的手段をとることは必要ですが、そこまではないにしろ、日常的に自分にとって「嫌いな人」「苦手な人」「困った人」はいるのではないでしょうか。きっとみなさんも直感的に何人かの顔を思い浮かべたはずです。

ある意味、このような人を愛することのほうが、戦場の敵を愛するよりも困難だと言えるかもしれません。とはいえ、自分を嫌っている人に「仲良くしましょう」「いっしょにごはん食べましょう」と言ってもかえって関係がこじれるだけです。「愛する」ということは仲良くお付き合いすることとは限らないのです。ではどうすればいいのでしょうか。

そこでイエスは、天の父の愛を伝えられます。父は善人にも悪人にも雨を降らせ、太陽を昇らせる方です。天の父はどんな人であろうと愛を注がれる方なのです。ということは、わたしが受け入れることができない人も父は愛しておられるということを知ったとき、わたしたちはどうすればいいのか。そこに答えがあります。

 

先週わたしは「人間には絶対はない」と書きましたが、イエスは「あなたがたも完全な者となりなさい」と言っているではないか、と思われるかもしれません。このみことばをもって、罪を犯さない完璧な人間となるように勧める解説もありますが、それは常人には無理というものでしょう。

イエスは「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われます。わたしも天の父の子、わたしの嫌いな人も天の父の子です。そのことを受け入れるとき、父の愛を受け止めることができるのです。そして完全である父に結ばれて、父の完全さを分けていただいていることを知ることができるのではないでしょうか。         (柳本神父)