3月5日 四旬節第2主日 マタイ17章1~9節 イエスとともに四旬節の山道を登る

 

例年、四旬節第二主日には「主の変容」の箇所が朗読されることになっています。この出来事はマタイ、マルコ、ルカの福音書に記されていますが、今年はA年なのでマタイの福音書から選ばれています。イエスの姿が変わった、とされているこの「高い山」は古くからガリラヤ湖南西にあるおわん型の「タボル山」であると言い伝えられています。

昔、NHKの「みんなのうた」で「山口さんちのツトムくん」という歌がありまして、わたしは「ヨセフさんちのイエスくん、タボルの山で変容~♪」と心の中で替え歌にして歌っていたのを思い出します。古い話で失礼しました。

このイエスの姿は栄光を表しており、イエスの受難を思い起こす四旬節にはふさわしくないようにも思えます。しかし、これは最初の受難の予告のあとの出来事でした。つまり、イエスの受難は十字架の死で終わるのではなく、復活の栄光につながるということを表しているのです。

 

教皇フランシスコは今年の四旬節メッセージで「イエスとともにタボル山に登るように」招かれました。もちろん実際にイスラエルに行くということではなく、四旬節の歩みをこのように表しておられるということです。

登山家のみならず、人はなぜ苦労して山に登るのでしょうか。わたしも毎年、奈良カトリック幼稚園の年長さんと若草山に登りますが、さすがにこの年になると体力的にきついです。けれども、登りきると奈良市街と奈良盆地のすばらしい風景が広がっています。苦労のかいがあるというものです。絶景を見ながら山の上で子どもたちと食べるお弁当は格別です。イエスの弟子たちも苦労の末にタボル山に登った先で、主の光り輝く姿という絶景を見ることができたのです。

山道を登るのは体力的にも精神的にもきついですが、苦労ばかりではありません。途中で見られる花や木々、若草山では鹿にも出会います。そして何よりもみんなで話をしながら、ときには登るのに時間のかかる人を待ちながら、一緒に登るのは楽しいものです。四旬節も同じです。四旬節は全世界で一斉に迎えます。世界中のキリスト者がともに歩むのです。イエスとともに、洗礼志願者とともに、苦しみを受けている人々とともに。そして登り切った先に主の栄光と出会えるという希望のうちに歩むことができるのです。

 

教皇はこの四旬節の登山の歩みをシノドスの歩みと重ねて語られます。シノドスの精神(シノダリティ)は「ともに歩むこと」です。世界中のキリスト者がともに四旬節の歩みを行うとき、そこにシノドスの精神が求められます。その意味で、四旬節はわたしたちがシノダリティを学び、体験するチャンスでもあるということです。

四旬節における歩みの中で人は「変容」し、教会も「変容」していきます。それは世界が神の国へと「変容」するための歩みでもあるといえるでしょう。    (柳本神父)