4月16日 復活節第二主日 ヨハネ20章19~31節 トマスは疑り深いのか

 

復活祭を含めて八日間は「復活の八日間」と呼ばれる特別な期間です。復活祭のお祝いとして、平日でも栄光の賛歌や復活の続唱が歌われ(または唱えられ)ます。その締めくくりが復活節第二主日です。初代教会では、復活徹夜祭に洗礼を受けた人は、八日間信仰養成を受けながら洗礼の際に受けた白衣を着て過ごし、八日目に白衣を脱ぎました。それで「白衣の主日」とも言われます。また、ヨハネ・パウロ二世はこの日に神のいつくしみを思い、たがいに愛し合い、ゆるし合うために、この日を「神のいつくしみの主日」とするように定められました。

 

今日の福音の主人公は十二使徒のトマスです。いや、ほんとうの主人公はイエスなのですが、とくに後半はトマスの体験を通してイエスの復活を考える内容となっています。トマスはイエスの復活について「見ないと信じない」と言い張ったため、教会では「疑り深いトマス」という不名誉な呼び名をいただいています。

先日、京都教区の村上透磨神父が亡くなられました。「透磨」は洗礼名のトマ(トマス)に漢字をあてたお名前ですね。その村上透磨神父が「ぼくはトマスと一緒で疑り深いねん」とおっしゃっていたような記憶があるので、トマは使徒トマスだと思っていたのですが、お葬儀で神父様の洗礼名は神学者のトマス・アクィナスだったと知りました。たしかに聖書だけでなく、いろいろな本を読んで勉強なさる方だったのでふさわしい洗礼名なのですが、それならばあれは誰の言葉だったのでしょうか。

しかし、わたしはけっしてトマスは疑り深い人だったのではないと思っています。だって、自分だけがいないときにイエスが現れるなんて、そりゃ悔しかったにきまっています。意地でも自分の目で確かめないと信じない、と言い張ったのだと思います。ひょっとすると、トマスはみんなの話を聞いたときに、心の中では信じていたのではないでしょうか。トマスの「見ないと、そして触れないと信じない」ということばには、自分も会いたい、そして確かめたいと思う気持ちが表れていると思います。

そしてこんどはトマスも会うことができました。傷跡を確認する前にイエスだとわかった彼は、「わたしの主、わたしの神よ」というすばらしい信仰宣言をもってイエスと会った喜びを表現したのです。

 

イエスは「わたしを見たから信じたのか」と言われます。トマスを叱っているようにも思えますが、イエスもトマスと出会えたことを喜んでらっしゃったことでしょう。

では、「見ないのに信じる人」とは誰のことでしょうか。イエスが天に帰られたあとのキリスト者はそうだといえるでしょう。わたしたちもそうですね。でも目では見ていないかもしれませんが、心の中ではすでに見ているはずです。トマスのように。(柳本神父)