4月2日 受難の主日 マタイ27章11~54節、マタイ27章11~54節 対照的な王の姿

 

今日は受難の主日です。今日から聖週間が始まります。受難の主日は「枝の主日」とも呼ばれ、イエスのエルサレム入城を表す枝の祝福が行われます。ことばの典礼の福音は受難の朗読ですが、聖金曜日にも行われますので、ここではエルサレム入城の福音を中心に述べることにします。なお、いずれの福音も受難の主日にはマタイ、マルコ、ルカから選ばれることになっており、今年はA年なのでマタイの福音が読まれます。

 

聖週間の始まりにエルサレム入城が記念されるということは、この一週間はイエスがエルサレムに滞在している期間であるということです。エルサレムはイエスが「わたしの家」と言った神殿のある聖地ですが、そこはイエスが死を迎える場所でもありました。

エルサレム入城の福音と受難の福音は対照的な内容です。入城の際には群衆は喜んで「ホサナ!」とイエスを迎えますが、裁判の際には「十字架につけろ!」と叫びます。これらの群衆は同じ人々だったのか、別の人々だったのかどちらでしょうか。同じ人々だったとすればどうでしょうか。群集心理と考えることもできますね。誰かが「イスラエルの王になる方が来られた!」と言ったのを聞いて、「わたしも行かねば!」と棕櫚の枝を持って集まってきたのでしょうか。一方、裁判のときには誰かが「十字架につけろ!」と言い始めたのにつられて叫んだのかもしれません。自分は乗り遅れたくない、仲間外れになりたくない、と思う心理が働いたとも考えられます。

イエスは常々「わたしをメシアだと言ってはいけない」と弟子たちに伝えていました。しかしエルサレム入城の際には人々が「ダビデの子にホサナ!」と叫ぶのを阻止されません。「ダビデの子」はメシアであり、イスラエルの王となる者をあらわしているにもかかわらずです。これまでにもイエスがこの世の国王になることを期待していた弟子たちが、イエスに諫められる場面がありました。洗礼者ヨハネもイエスがエルサレムの権力者を追い出して王位に就くことを期待していたように思えます。しかしイエスはこの世の王位につくことを望まれませんでした。群集が手のひらを返すように叫んだのも、期待外れだったと失望したためだったと考えることもできます。イエスは歓喜をもって迎えた群衆に、「たしかにわたしは王として入城した。しかしほんとうの王の姿はこのあとに示される」ということを伝える意味もあったのではないでしょうか。

 

群集心理に基づくものだったとしても、彼らがイエスを喜び迎える姿に神の国の完成、世の終わりのあり方を見てもよいのではないでしょうか。神の国はすべての人がイエスを王として喜び迎えるときです。エルサレム入城の際にはこの世の王として迎えられたイエスは、世の終わりには神の国の王として迎えられます。今日から始まる聖週間は、イエスがどのような王であるかを黙想する一週間であるともいえるでしょう。  (柳本神父)