4月30日 復活節第四主日 ヨハネ10章1~10節 羊飼いは四六時中羊のことを考えている

 

復活節第4主日から第6主日まではヨハネによる福音が朗読されます。イエスの語られることばを通して、イエスとわたしたちの関係を復活の光の中で思い起こすのです。今日の内容は羊と羊飼いのたとえです。

 

羊飼いは羊とともに生活していました。日中は牧草地に連れ出して食事をさせ、夜は安全な囲いの中に導いて休ませます。この「囲い」はあちこちに設けられ、門番が管理していました。羊飼いたちはその場所を知っていて、羊を連れてきてそこで夜を過ごしました。

朝になると羊飼いは自分の羊を連れ出します。ほかの羊飼いと羊も来ているので、囲いの中はごっちゃになっているのですが、羊はちゃんと自分の羊飼いについていきます。羊飼いの声を聴き分けて、別の羊飼いにはついていかないそうです。

またまた「ほくちゃん」の話ですみません。「ほくちゃん」は一昨年の秋に生まれた牡鹿で、小さいときからなついてくれています。わたしも毎日奈良公園に会いに行くのですが、見つけたらこっちに来てくれます。ほかにも何匹かなじみの鹿がいて、おせんべい目当てに寄ってきます。ときどき会いに行くだけの鹿でもそうなのですから、四六時中を一緒に過ごしている羊飼いと羊の絆が強いのは当然のことだと思います。

このように、羊と羊飼いの関係は、イエスとわたしたちの関係を表しています。そしてイエスは「わたしは羊の門である」とも言われます。これはどういう意味でしょうか。来週の福音でイエスは「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われます。つまり、イエスは父なる神に至る門であるということでしょう。

しかし、別の考え方もあります。イエスが囲いの門であるとすれば、門をくぐって入る中は休む場所です。「重荷を負うものはだれでもわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」というみことばを思い出します。また、門を出る先は活動する場であり、食べ物と飲み水を得る場です。「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い」という詩篇(23)を思い起こします。イエスはわたしたちを休ませ、活動するときにはともにいてくださり、いのちを養ってくださる方であることを示しているといえるでしょう。

 

信仰は、わたしたちのほうから神を信じ、務めを果たすものである、と考えられがちです。神に必死にしがみついて、一生懸命努力した者だけが報われるというイメージです。しかし、羊と羊飼いの関係はそうではありません。羊は羊飼いを信頼し、喜んでついていきます。羊飼いは羊を愛し、一匹一匹のことをいつも大切に考えて、どうすればみんなを導くことができるのかということをいつも考えています。わたしたちにとって信仰とは、そのようにわたしのことをいつも考えて導いてくださる主に信頼し、安心してゆだねることなのではないでしょうか。                     (柳本神父)