4月6日 聖木曜日 ヨハネ13章1~15節 聖体は愛の秘跡

 

今日からの三日間は「聖なる過越の三日間」として一年の典礼の頂点とされています。「過越」は第一朗読にあるように、出エジプトの際に神が災いをおこさぬようにユダヤ人の家を「過ぎ越す」ところからきています。そこから出エジプトの出来事全体をさすようになりました。そしてそれを記念する「過越祭」では各家庭で過越の食事が行われるようになりました。イエスも弟子たちと食事(最後の晩さん)を行い、パンとぶどう酒をご自分のからだと血として与えられ、それを死と復活の記念として行うよう定められました。

 

最後の晩さんというとレオナルド・ダ・ヴィンチの絵が有名ですが、あんなふうに横一列で食事したわけじゃないですね。全員が見えるよう記念撮影のように描いてあるということです。さらに、当時は床に座って食べていたということですので実際の光景はずいぶん違うでしょう。修道院などでは食堂に最後の晩さんの絵を掲げる伝統がありますが、描かれているうちの一人はユダなので、戒めが込められているのかもしれません。

さて、今日の福音はヨハネから選ばれています。ほかの三つの福音ではイエスがパンとぶどう酒を与えることば、いわゆる聖体制定句が記されていますが、ヨハネにはありません。その代わりに弟子の足を洗った出来事が記されています。なお、今日の典礼では聖体制定句は第二朗読のパウロの手紙にあります。これはパウロが弟子たちから聞いて記したもので、最も古い伝承と言われています。というのは、福音書が編集されたのは西暦70~100年ごろですが、パウロの手紙は彼の存命中に記されたものだからです。

四つの福音を比べて考えると、ヨハネの福音では「弟子の足を洗う」ことが聖体祭儀に相当するものであったということになります。当時、家の中に入るとき、汚れた足を洗うのはしもべや奴隷の役割でした。イエスはそのように仕える姿を示されます。そのあとイエスは「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗いあわなければならない」と言われます。このことばは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というイエスのことばにつながります。イエスは弟子の足を洗うことによってご自分の愛を示されたのでした。

イエスは足を洗う前に「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されています。それを念頭に置いて読むと、そのあとのイエスの行為がすべて愛に基づくものであることがわかります。イエスはユダも含めた弟子たちを、そしてわたしたちをこの上なく愛しい、大切な存在として愛し抜き、みことばを伝え、十字架を受けられたのです。

 

イエスが残された主の過越の記念は現在も聖体祭儀(ミサ)として続けられています。そして今日はその始まりを記念する日です。その日の福音でイエスの愛の行為が朗読されるのは、まさに聖体祭儀が愛の秘跡であるというしるしなのです。    (柳本神父)