4月7日 聖金曜日 ヨハネ13章1~15節 だれがイエスを十字架につけたのか

 

今日はイエスの受難と死を記念する日です。教会の伝統では、イエスが亡くなられたことを思い起こし、今日と明日の日中にはミサを行いません。それで聖金曜日にはミサではなく主の受難の聖式が行われます。その中心が受難の朗読です。受難の朗読は受難の主日にも行われましたが、今日は例年共通でヨハネの福音書から選ばれています。

 

イエスの受難について流れを追ってみていきましょう。

まずイエスの捕縛の場面があり、尋問へと続きます。尋問は大祭司アンナス→大祭司カイアファ→総督ピラトの順で行われます。その間にペトロの否定の話が織り込まれています。総督の尋問はイエスに対する質問と、ユダヤ人たちとのやりとりからなっています。マタイ・マルコでは「十字架につけろ」と叫んだのは群衆ですが、ルカでは「人々」、ヨハネでは「ユダヤ人」とあるのでイエスを訴えた祭司や下役であったと考えられます。その結果、ピラトは彼らの訴えを受け入れ、イエスを十字架につけるために引き渡します。

イエスを十字架につけたのはユダヤ人(とピラト)なので、キリスト教徒がユダヤ人を嫌悪し、迫害する原因となることもありました。しかしヨハネの福音における「ユダヤ人」は祭司や下役の人々なので、ユダヤ人でも指導者階級の人々だったということです。新約聖書でも多くの場合、そのような意味で使われています。ですから、そのような考えははっきりと間違いだといえるでしょう。そしてイエス自身もユダヤ人でした。

受難の朗読は役割を分けて読まれますが、会衆は「十字架につけろ!」と声を合わせて読みます。このことは、罪びとであるわたしたちもイエスの死に加担していることを表しています。イエスは人類の罪を負って十字架につけられたのです。

そして、イエスの十字架は死で終わるのではなく、復活につながっています。わたしたちもイエスの十字架につながることによって、イエスの復活にもあずかることができるのです。昨日の福音でペトロが「私の足など、決して洗わないでください」と言ったのに対し、イエスは「わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われました。このことばは、わたしたちが罪に汚れていることを認め、神による清めを求めることによって、イエスとつながっていることができる。そして主の復活によって贖いの恵みが与えられるということを表しているのではないでしょうか。

 

わたしたちは自分で救いを得るのではなく、神によって救われる存在です。そのためには、自分が罪を犯す弱い存在であることを自覚し、ゆるしを求める必要があります。四旬節の典礼で「殺せ、十字架につけろ」と叫ぶのは、わたしたちが罪を犯してしまう弱い人間であることを意識するためでもあります。わたしもいつも一緒に心の中で唱和しています。そうしてわたしたちは、罪のゆるしと復活へと導かれるのです。   (柳本神父)