5月14日 復活節第6主日 ヨハネ14章15~21節 あなたがたをみなしごにしてはおかない

 

復活節第4主日から第6主日まではヨハネによる福音が朗読されます。とくに今週は、聖霊を遣わされることを予告される箇所となっています。イエスは受難を前に、弟子たちに自分がこの世を去っても別の形でともにいるので心配しないように、と告げられます。

 

イエスは「わたしはあなたがたをみなしごにしておかない」と言われます。「みなしご」というと「みなしごハッチ」やタイガーマスクを思い出します。あ、去年も書きましたね。最近では死語になりつつありますが、今でも親のいない子どもはいます。孤児院(児童養護施設)では以前には戦災孤児が多かったのですが、現代では交通遺児のほか、育児放棄された子どもたち、親が刑務所に入っている子どもたちも多いと聞いています。いずれにしても本来育てるべき親がいない子どもたちには社会の支えが必要なのは言うまでもありません。

イエスは「人々が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9章36節)というのですから、「みなしご」とはそのような状態をいうのでしょう。それでイエスご自身は福音を語られ、弟子たちにもそのような人々のために働くように命じられました。その思いはイエスが天に帰られても続きます。そのしるしが「弁護者」つまり聖霊の派遣であるということです。

 聖霊が弁護者であるというのはどういう意味でしょうか。現代社会におけるプロの弁護者といえば弁護士です。弁護士の仕事は依頼者の事情をよく聞いて、専門知識を駆使して相手方と交渉することです。わたしもお世話になったことがありますが(悪いことをして訴えられたわけではありませんのでご心配なく)、膨大な資料や判例を調べて対処してくださるのには感心します。イエスが言われる「弁護者」も、弟子たちやわたしたちが困ったときに特別な力をもって守ってくださる方だということです。

弟子たちはイエスに招かれて宣教生活をともにしているとき、イエスに教えられ、守られていました。その意味ではイエスが彼らの弁護者であったといえるでしょう。しかし、そのときの弟子たちはイエスについていく受け身の立場でした。それでイエスが十字架につけられたとき、彼らは悲しみ、恐れ、途方に暮れてしまったのです。

 

イエスが弟子たちに、弁護者を送ると言われたということは、弟子たちの立場が変わることを意味していました。なぜなら、助けてもらうためには自分たちがイエスの福音をどのように宣教するかを自覚し、それを弁護者に伝えなければならないからです。

宣教というと出かけて行って教えるというイメージがありますが、大切なのは神の愛を分かち合うことです。弁護者である聖霊は、わたしたちが愛を分かち合うのをためらうときにこそ助けてくださる方なのです。                 (柳本神父)