5月21日 主の昇天 マタイ28章16~20節 世の終わりまであなたがたとともにいる

 

イエスは復活したのち40日間弟子たちに現れました(第一朗読・使徒言行録)。その後天に上げられたので、教会は復活祭の四十日目に主の昇天を祝います。本来は復活節第六木曜日がそれにあたりますが、キリスト教国ではない日本などでは次の日曜日に祝うことになっています。

 

この昇天の出来事は福音書ではマルコとルカに記されていますが、いずれもさっぱりと「天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ)「祝福しながら天に上げられた」(ルカ)と書かれています。マタイとヨハネはイエスが最後に残したことばが記され、昇天があることが示唆されていますが昇天そのものについては書かれていません。その代わり、今日の第一朗読でイエスの昇天のありさまが読まれます。そこでは、イエスが雲に覆われて見えなくなったこと、弟子たちが天を見上げていたこと、天使と思われる二人の人が「またおいでになる」と告げたことが記されています。

イエスの昇天というと、かぐや姫のように天上の実家に戻るというイメージがあります。たしかにイエスは「父のもとに行く」と言われたのでそうかもしれません。しかし、かぐや姫の物語では育ての親であるおじいさん、おばあさんは悲しみにあふれていますが、弟子たちにはそのような様子が見られません。愛する主との別れであるにもかかわらずです。もちろんイエスが天に上げられるのは、栄光の表れでもあるので素晴らしい出来事に違いありませんが、使徒言行録では弟子たちは喜ぶわけでも悲しむわけでもなく、ただあっけにとられて天を見上げているだけでした。

これらの朗読から理解できることは、「主の昇天」の祭日は「イエスが天に昇られた」出来事だけをお祝いすることではないということです。大切なことは「昇天」によってイエスと弟子たちの関係性がどう変わったかということです。

そこでもう一度、今日の福音のイエスのことばを見てみましょう。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」とイエスは言われます。これはイエスの福音をすべての人に伝えなさいという意味です。「洗礼を授け」というのも教会の信者を増やすというよりも、神の国のために働く人を増やしなさい、という意味だと考えられます。イエスが貧しい人や苦しむ人に福音を伝えられたことを考えると、すべての人が幸せになるため、つまり神の国のために働きなさい、と言われているようです。

 

今日の福音のイエスのことばに「昇天」の本質が語られているといっていいでしょう。イエスは「世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」ために昇天されたのです。「あなたがた」にはわたしたちも含まれています。世の終わり=神の国の完成に至るまで、イエスはわたしたちとともに働いてくださるのです。          (柳本神父)