6月11日 キリストの聖体 ヨハネ6章51~58節  キリストを迎え、ともに神の国のために働く

 

復活・昇天・聖霊降臨を通してイエスは世の終わりまでわたしたちとともにいてくださることを示してくださいました。神の国に至る旅路の糧として与えてくださるのが聖体です。それで今日はキリストの聖体を記念します。本来は聖霊降臨後の第二土曜日ですが、主の昇天同様、日本では主日に祝われます。

 

今日の福音朗読は最後の晩さんの場面ではなく、イエスがユダヤ人(ファリサイ人や祭司たち)に語った内容です。ここでイエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はいつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」と言われます。このように父と御子の関係が御子とわたしたちの関係となる、という教えはヨハネの福音で繰り返し語られています。とくにイエスが最後の晩さんのあとに語ったとされるみことばの中に表されており、復活節第4~第6主日の福音朗読箇所にも出てきました。今日の箇所ではそれが聖体の秘跡と結び付けて語られているということができます。つまり、キリストの体をいただくことによって、御子をわたしたちの内に迎えることができるからです。

ミサのときには司祭が「キリストのからだ」と言って聖体を授けます。これはもちろん「これはキリストの体です」という意味です。しかしこのことばの背後にはもう一つの意味が隠されているのではないでしょうか。それは、「あなたがたもキリストの体です」という意味です。パウロは手紙の中で、教会はキリストの体であり、わたしたちもその一部であると伝えています。今日の第二朗読もそのことを表しています。

わたしたちはキリストの体をいただくことによって、キリストと結ばれ、キリストの体の一部として神の国のために働く者となります。したがって、聖体拝領を受けるためには準備と信仰が必要です。聖体をいただく意味を理解し、キリストとともに働く決意があることが求められるのです。

そして、キリストの体は一つですから、わたしたちも一つになって歩んでいきます。聖体祭儀は個人個人がキリストと結ばれて解散するものではありません。場所は違っても、世界中でキリストの体を頂いた者同士が心を一つに歩んでいることを忘れてはいけません。

 

聖体の秘跡はイエスが天に帰る前に告げられた、「わたしは世の終わりまであなたがたとともにいる」という約束の目に見えるしるしです。わたしたちも、キリストの体をいただくたびにこの約束を思い起こすことができます。復活節第五主日の福音で、イエスは聖霊を遣わす予告とともに「もっと大きな業を行うようになる」と告げられました。「大きな業」とはわたしたちがキリストとともに行う業、神の国を築いていくことであると考えることができます。わたしたちが聖体をいただくのは、自分が満たされるためだけではなく、すべての人が神の愛に満たされる世界を実現するためでもあるのです。(柳本神父)