7月2日 年間第13主日 マタイ10章37節~42節  福音によって結ばれた家族

 

マタイの福音の10章はイエスが弟子を派遣するにあたって語られた内容で先々週から続いています。今日の福音の前半はイエスに従う覚悟、後半は旅先で弟子を世話してくれる人に対する報いについて語られています。

 

わたしよりも家族を愛するものはわたしにふさわしくない、とは非常に厳しいことばです。それならすべての信者は出家して修道生活を送らなければならないのでしょうか。

わたしの家族・きょうだいは仲のいい方だったと思います。よく旅行に行きましたし、一緒に遊ぶことも多かったです。ですから、神学校に入ってからもよく実家に帰りましたし、家族としょっちゅう手紙のやり取りをしていました。そんなわたしにとって今日の福音のことばは強いプレッシャーでした。キリストに従うためには家族との関係を切り捨てなければいけないと思っていたからです。

しかし、あるときに宣教師の神父さんが「家族を大事にしなさい」と言われたのに戸惑いを覚えました。せっかく家族との関係を乗り越えようとしていたときにそう言われてしまったからです。いったいどうすればいいのか、考えながら司祭への道を歩みました。

最終的に理解したことは、家族を大事にするにしろ、家族との関係を見直すにしろ、肝心なことは「キリストを愛する」ということだったのです。家族を捨ててキリストに従うのではなく、キリストに従うことによって自分にふさわしい家族との関係が見つかるということなのだと思います。

家族のあり方はさまざまです。でも、わたしたちは勝手にイメージする理想の家族像に縛られているように思います。ある人は「兄弟と何十年も連絡していないしどうしているかわからない」と言われ、驚いた記憶があります。また、家族間で軋轢を感じている人もいます。虐待を受けている子どももいます。それどころか、家族のいない人もいます。

イエスの時代、ユダヤ人にとって血のつながりは大切でした。イエス自身も「マリアとヨセフの子ではないか」と言われました。イスラエルの王はダビデ家の血を引く者がなるべきだと考えられていました。そして異邦人は神にふさわしくないと排除されていました。日本の社会にもそのような考え方があるかもしれません。

それに対して、イエスは血のつながりを超えた家族の姿を示されたのです。家族のいない孤独な人々や異邦人にとって、それはまさに福音だったのではないでしょうか。

 

 晴佐久神父は「福音家族」というあり方を提唱されました。それは血縁ではなく福音によって結ばれる家族です。そして、その福音家族の実践によって、「血縁家族を救い、教会家族を救い、人類家族を救う」ということです。わたしたちもイエスが始められた神の国の家族の一員であることを忘れないようにしたいものです。      (柳本神父)