7月23日 年間第16主日 マタイ13章24節~43節  なぜ毒麦を放置しておくのか

 

今日の福音は先週に続く箇所で、「毒麦」のたとえです。朗読が任意となっている後半では「からし種」と「パン種」のたとえ、そして「毒麦」のたとえの説明が記されています。ここでは短い形で読まれる「毒麦」のたとえを中心に見ていきたいと思います。

 

最初のたとえで出てくる毒麦は何を表しているのでしょうか。後で出てくるたとえの説明では「悪い者の子ら」、つまり悪人だということです。ではなぜのびるままにしておくのでしょうか。悪の芽は早いうちに摘み取ったほうがいいとよく言われます。

たしかに「悪人」は社会から駆逐されたほうがいいように思います。これを書く直前にもテレビの「警察24時」を観ていたのですが、「悪い奴らは早く捕まってしまえ!」と思ってしまいますね。しかし、警察に捕まるような人たちは根っからの悪人なのでしょうか。前にも同じような番組の中で、JR郡山駅の横断歩道で「運転手さん、歩行者妨害です」と白バイに捕まっている人が映っていました。それでわたしも夜中の大仏前交差点で「一旦停止違反です」と捕まったのを思い出し、自分も同じ立場だと思いました。いつも刑務所で受刑者にお話ししている神父であるにもかかわらずです。

イエスは毒麦について「刈り入れまで育つままにしておきなさい」と言われます。それは悪人を野放しにしておくという意味ではなく、人が人を裁き、否定してしまうことを戒めておられるのではないでしょうか。

イエスが徴税人のマタイを弟子にし、彼の家で食事をしていたときに、ファリサイ派の人々は「なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と非難しました。それに対してイエスは「わたしが来たのは罪人を招くためである」と言われました(マタイ9章10~13節)。「毒麦」のたとえもそのような意味で言われたのかもしれません。「あなたがたは徴税人や罪人を毒麦のように否定しているが、神の思いは違うのだ」と言いたかったのではないでしょうか。

それは36節以下の「毒麦」のたとえの説明とは違うではないか、と思われるかもしれません。でも先週の箇所同様、初代教会に付け加えられたとも考えることができます。世の終わりが近いと考えられていた初代教会の信者に、早く回心するように促すためにこのたとえが用いられていたのかもしれません。

 

わたしたちはついつい「あの人はいい人だ」「悪い人だ」と決めつけてしまいがちです。でも自分のことをよくよく考えてみたときに、100%いい人、悪い人はいないことに気づきます。たしかに神は、世の終わりにこの世から悪を取り除いてくださいます。しかしそれは悪人を滅ぼすことではなく、すべての人の心に神の国の種を育て、悪い心を清めてくださることなのではないでしょうか。                 (柳本神父)