7月30日 年間第17主日 マタイ13章44節~52節  捨てるのではなく選ぶ

 

今日の福音は「天の国」のたとえです。内容的には先週の「毒麦」のたとえのあとに記されている「からし種」「パン種」のたとえに続くものです。ただ、それらのたとえが天の国のありさまを伝えているのに対し、今日のたとえは「天の国を選ぶ人」についての内容となっています。

 

第一のたとえは「畑に隠された宝」です。宝が隠されている土地を得るためにはほかのものを捨ててもかまわないと思っている人が登場します。土地を買うぐらいですから多大な犠牲を払うことになることでしょう。

現代の日本においては隠されている宝物は落とし物の財布などと同様、遺失物として処理されるそうです。持ち主が現れなければ発見した人と土地の所有者とで折半できますが、現れた場合は5%~20%の報労金をもらうことができます。さらに歴史的なものは文化財として公の所有として発見者と土地の所有者には報奨金が支払われます。今日のたとえの場合は土地の所有者でもあるのでうまくいけば自分のものになりますが、元の地主から不法侵入で訴えられ、また宝があるなら売らなかったなどとトラブルになる恐れがあります。イエスのたとえに水を差すようですみません。でもたとえの趣旨は「ほしいもののためならほかのものはいらない」ということです。そしてもうひとつのたとえも同じ意味です。わたしたちにもありますね。子どものころから「ほしいものがあるからお菓子はがまんして貯金する」というような経験が。

 天の国=神の国とはそのようなものかもしれません。天の国のすばらしさを知った者はそのためならほかのものはいらない、という思いに至るということです。年間第13主日の福音の「家族を捨てる」「自分のいのちを捨てる」という表現にもつながります。つまり、「捨てる」ことに目的があるのではなく、「選ぶ」ことが必要だということです。

 しかし、現実の生活においては「たしかに天の国はすばらしいものだと思うが、ほかのものも捨てがたい」という思いがあることでしょう。わたしも断捨離をしなければと思うのですがなかなかできません。しかし、それは「持てる者」の悩みです。家族が重い病気にかかった人は「何もいらないから病気を治してほしい」と願うことでしょう。また、ウクライナのような戦火のもとに暮らす人は「とにかく戦争が終わってほしい」と願うことでしょう。天の国を求めるとはそのようなことなのではないでしょうか。

 

社会では、多くの人が利益を求め、貧しい人や弱い立場の人は切り捨てられ、神の国への道は遠いように思えます。そのような現実が神の国を求めにくくしているのかもしれません。しかし、イエスは「神の国は近づいた」と明言されました。すぐそこまで来ているのに、ここであきらめたら神の国は実現しないのです。         (柳本神父)