7月9日 年間第14主日 マタイ11章25節~30節  イエスのくびきとは何か

 

イエスは弟子たちを遣わすにあたっての注意や心構えを告げられたあと、ご自身でも宣教されます。洗礼者ヨハネやイエスを受け入れなかった人々をとがめられたあとに今日の箇所があります。ルカ福音書でも同じような言葉が出てきますが、それは72人の弟子が帰ってから神を賛美して語られた言葉とされています。今日の箇所は前とつながらないようですが、ルカと同様に弟子たちが宣教から帰ってからの言葉だと考えられるかもしれません。そうすると今日の箇所の冒頭の神への賛美の言葉もふさわしいように思います。

 

イエスが「わたしは柔和で謙遜だから」と言われるところはちょっと不自然です。「自分で言うたら謙遜とちゃうんちゃう?知らんけど」と言いたくなりますね。しかし、「柔和」にあたる原語には、もともと「貧しい」という意味があるそうです。そして「謙遜」には「身分が低い」という意味があります。それでイエスは自分のことを「貧しく、身分が低い」というニュアンスで言われたと考えられます。それはまさしく、イエスが言われた「幼子のような者」のことであり、イエスはこのような人々の友であることを示されたのだといえるでしょう。

イエスは「疲れた者、重荷を負う者はわたしのもとに来なさい、休ませてあげよう」と言われます。さらに「わたしのくびきを負いなさい」と。「軛(くびき)」は牛や馬が荷車を曳くときに首にかける木です。「くびき」は重荷を負わせるための首かせなので、普通はいい意味では使われません。イエスは「休ませてあげよう」と言われながら、さらに重荷を負わせるようなことをされるのでしょうか。それでは話が違いますね。

ではなぜイエスのくびきは休息につながるのでしょうか。わたしたちの人生は喜びや楽しみだけでなく、悲しみや苦しみもあります。生きていること自体が重荷であるかもしれません。そこで、イエスが言われる「わたしのくびき」とは、さらなる重荷を負わせるためのものなのではなくて、その人の重荷を一緒に曳くためのくびきです。一頭で曳いている重荷を二頭立てにするために負うくびき、それがイエスのくびきなのです。

不思議なことに、くびきでしっかりと結びつけることによって、片方の牛が弱っていても、もう片方の牛の力が伝わって楽に曳けるそうです。だから、イエスのくびきは重荷を楽に曳くためのくびきでもあるのです。そのかわり、わたしたちは自分勝手に歩くのではなく、イエスと歩調を合わせながら歩く必要があります。

 

わたしたちは生きている限り、人生の重荷を降ろすことはできません。けれども、イエスが一緒に歩いてくださることによって、この世の重荷を負いきることができるのです。そして、イエスの弟子であるわたしたちも、イエスの教えに従って、苦しんでいる人々の重荷を軽くすることのできる社会を作っていかなければならないのです。 (柳本神父)