8月27日 年間第21主日 マタイ16章13節~20節  天の国を開く合鍵

 

先週の福音から少し飛んで、今日はペトロを教会の頭に任命される場面です。これにより、ペトロは第一代の教皇とされています。そして「天国の鍵を授ける」と言われます。それで歴代教皇の紋章には鍵が描かれていますが、教会全体のシンボルでもあるといえるでしょう。

 

イエスは弟子たちに、人々が自分のことをどのように言っているかを問いかけます。彼らは「洗礼者ヨハネ」「エリア」「エレミア」「預言者の一人」などと言われていると答えます。そして、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という問いに対し、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えます。そのあとでイエスはペトロを教会の頭とされるので、ペトロが正しい答えをしたごほうびのように思うかもしれません。しかし、彼は弟子を代表して信仰を宣言したのではないでしょうか。いずれにしても、イエスがこの世からいなくなったあとにキリスト信者をまとめる役割は必要です。ペトロはその役割を与えられたということです。

教会に鍵を預けられたのにはどのような意味があるでしょうか。わたしが神学生のとき、週末には徳田教会に泊まって日曜日に奉仕していました。神父さんから教会の鍵を預かっていて寝る前に閉めるのですが、もちろん泥棒や不審者が入らないようにするためです。それで青年たちに鍵を見せて「地獄の門(昔の聖書の訳)もこれには勝てないんだよ」と冗談を言っていました。防犯のためにはこの世の鍵も大切ですが、教会は宣教するところですから、霊的な鍵は閉めてはいけませんね。

イエスが宣教生活においてとくに心を留められたのは、貧しい人や病気の人、体の不自由な人、罪びととされていた人、やもめや女性たち、幼い子どもたちでした。彼・彼女らは神に頼りたくても、当時の宗教的指導者の人たちからは神にふさわしくないとして見捨てられていました。祭司やファリサイ派の人々は、天の門の鍵を閉めていたのです。イエスがペトロに「鍵を授ける」と言われたのは、そのような人々のために教会は鍵を開けなさいという思いがあったのでしょう。それは、「飼い主のいない羊のように打ちひしがれている群衆」を深く憐れまれたイエスの思いを継ぐことでもあるのです。

 

イエスの問いかけに対し、ペトロは自分のことばで信仰を表明しました。わたしならどのように答えるでしょうか。「聖書にこう書いてあります」「カテキズムではこう習いました」という答えは求められていません。「わたしにとってイエスは何者か」という答えが求められています。自信がなくてもかまいません。間違っていてもかまいません。自分のことばが必要なのです。

天の国の鍵は教皇だけでなく、わたしたちにも合鍵が預けられています。それは、一人でも多くの人を天の国(神の国)に招き入れるためなのです。      (柳本神父)