8月6日 主の変容 マタイ17章1節~9節  あるべきほんとうの姿

 

今日は「主の変容」の祝日です。通常は年間第18主日で福音はパンを増やす奇跡の箇所ですが、今年は主の変容が日曜日と重なるのでその内容が読まれます。

 あれ?この箇所は前にも読んだことがあるぞ、と思われた方、あなたは正しいです。そう、この箇所は3月5日の四旬節第二主日で読まれた箇所です。同じ典礼暦年の中の主日に同じ個所が二回読まれるというのは珍しいことです。それでここでも前回の説明をコピーして済ますこともできるわけですが、それではあまりに手抜きなので改めて内容を考えてみたいと思います。四旬節では受難と十字架の死のあとに来る復活の姿をあらかじめ示されるという意味があります。それで「山を登る」というテーマで書きましたが、今回は変容そのものについて考えてみましょう。

 

 この箇所については、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に記されています。内容もほぼ同じです。同行した三人の弟子の名前も共通していますが、なぜこの三人なのかはわかりません。特に意味はないのかもしれませんが、今日の第二朗読でペトロは主の変容を目撃したことを証言しています(現在ではペトロ自身が書いた可能性は低いとされていますが、ペトロに近い弟子が聞いて記したのでしょう)。

 「変容」の出来事の中心は、イエスの姿が光り輝いたことと、天から声が聞こえたことです。もちろん、光り輝く姿はイエスの栄光を表しています。四旬節第二主日にはここに復活の栄光の姿を見ますが、復活を祝ったあとの今日は、神の国の完成のときにふたたび来られる主の栄光を見ることができるでしょう。

天からの声は「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者、これに聞け」というものです。このことばはイエスが洗礼を受けたときにも聞こえてきますが、「これに聞け」ということばはありません。マルコとルカでも同様です。いずれにしても、イエスが神のひとり子であることがここで示されているということです。

そのことばとイエスの光り輝く姿は、イエスのほんとうの姿を示しています。イエスはこの世にあって、一人の人間として人々から排斥され、苦しみを受け、十字架につけられました。そのイエスは神のひとり子として栄光を受けられる方であることがこれらの出来事によって示されているのです。同時に、イエスの姿は、罪や悪のない、人間の本来あるべき姿を表しています。わたしたち人間も、神によって造られた神の子として、イエスに聞き従いながら、神の国を実現するために歩んでいくことが求められています。

 

神の国は、すべての人が差別なく喜びのうちに生きることができる社会です。すべての人の罪を負って十字架につけられたイエスの愛は、神の国の実現によって世界にいきわたります。ですから、神の国の完成はイエスが栄光を受けられるときだといえるでしょう。そのとき、わたしたちもその栄光にあずかることができるのです。    (柳本神父)