9月10日 年間第23主日 マタイ18章15節~20節  二人または三人が集まるとき

 

 今日のミサでは先週から少し飛んでマタイの18章が読まれます。この章ではとくに教会共同体のあり方が語られています。今週と来週は「赦し」がテーマになっています。

 

 イエスはあやまちを犯している人に対し、まず二人だけのところで忠告しなさい、と言われます。一対一で忠告するのはつらいものです。けんかになるかもしれません。言いくるめられるかもしれません。言われたほうも自分が非難されるわけですからいい気持ちはしないでしょう。けれども、それを避けてほかの人に言ったとしたら、それは陰口になります。やはり、心を込めて真剣に向かい合って伝えることが必要でしょう。わたしの場合は人にはっきりと言うのが苦手ですから、それとなく伝えたり、回りくどく言ったりすることが多いです(京都人ですからね…)。自分なら非難されると落ち込んでしまうだろうと思ってしまうこともありますが…。

 もちろん、一対一で伝えても受け入れてもらえないこともあります。そのようなときには信頼できる証人に同席してもらうことが必要です。それなら最初から忠告したらいいとも思いますが、その場合はどうしても自分と同じ考えの人を連れていくので、複数で責める形になります。だから、まず二人だけで話すのがいいということでしょう。証人がいても聞き入れないならそこでようやく教会共同体で話し合うことになります。

 いずれにしても、イエスがこのように言われたのは、あやまちを犯した人が反省して共同体に残れるようにするためであり、追い出すためではなかったということです。できる限りその人に回心の機会を与えながら、共同体の和を保てるような努力が求められています。それはわたしたちの教会でも同じです。

 社会においてはどうでしょうか。フェイスブックやツイッターなどのSNS、インターネットのコメントなどの誹謗中傷が問題になっています。本人にとっては正義感からの書き込みかもしれませんが、ついつい批判することに快感を覚えるようになってしまいます。弱い立場の人々を苦しめる社会構造にはイエスのように毅然とした態度で臨むべきですが、個人の誤りには厳しく、同時に回心を望みながら対応すべきなのだということでしょう。

 

 イエスは「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と言われます。えっ、たった二人でもいいの?と思うかもしれません。仲良しの二人だったらそれは易しいことでしょう。でも苦手な人だったらどうでしょうか。さらに、三人となると、少しでも考え方が違うと二対一に分かれてしまいます。そうすると二人のほうが強くなってしまい共同体が保てなくなります。

 「イエスの名によって集まる」とは、自分のエゴを捨て、お互いを思いやりつつイエスの思いに従うことです。それは困難なことかもしれませんが、それを成し遂げたときに神の国がそこに実現します。そこには当然、イエスがいらっしゃるのです。 (柳本神父)