9月17日 年間第24主日 マタイ18章21節~35節  数限りなく赦しなさい

 

今日のミサは先週の続きです。先週と同じく「赦し」がテーマとなっていますが、イエスはたとえを用いて赦しの意味を教えられます。

「七の七十倍赦しなさい」ということは、もちろん1,2と数えて「よし、491回目だからもう許さなくていいぞ」と言うことではありません。「限りなく赦しなさい」という意味です。「赦す」と「許す」の違いはなんでしょうか。実は「赦す」は常用漢字表にはない読み方です。それで新聞などでは「許す」と書かれます。でも「罪を許す」というと悪いことをしてもいい意味にとられてしまいますね。一般的に「許す」は「許可」という言葉があるように、何かをしてもよいと認めること、「赦す」は「赦免」という言葉があるように、罰や負担を免除することという意味合いで使われます。それで聖書では罪に対しては「赦す」と表記されます。

今日の福音の場合は「あなたに対して罪を犯したら」ということなので、被害者は自分です。もちろん相手が「赦し」を願った場合です。そのときにイエスは何度でも赦しなさいと言われますが、「七の七十倍」は一人に対してとは限らないでしょう。さまざまな人の罪に対して限りなく赦すように、と言われているようです。

このあとに語られるたとえ話はわかりやすいですね。主君に一万タラントンの借金を許してもらった家来が、仲間の百デナリオンの借金を赦さなかったという話です。一万タラントンは百デナリオンの六十万倍です。六千万円の借金を赦してもらった人が百円の借金を赦さなかったということになります。

イエスのたとえ話にはときどき極端な内容が出てきます。そして主人(この場合は主君)にあたる人は神を表しています。主君が莫大な金額の借金を赦したということは、神の赦しがいかに大きく果てしないかということを表しているのでしょう。あるいはすべての人々を限りなく赦されるということを意味しているのかもしれません。そのような神が先にわたしたちを愛し、赦されたのです。それで神が愛し、赦してくださっているから、わたしたちも人を愛し、赦すことができるのです。

イエスは神の赦しをこのようにお金にたとえられます。来週のぶどう園のたとえ話でもそうです。イエスはお金にこだわる人を非難されましたが、なぜたとえではお金の話をされるのでしょうか。おそらくは世の中の金銭感覚では非常識ともいえるたとえ話を用いて、お金や財産に心を奪われている人々をいさめられたのかもしれません。いずれにしても、神の愛と赦しはこの世の常識をこえたところにあるのです。

 

「わたしに対して罪を犯される」体験はそうそうないかもしれません。しかし、どうしても赦せない人、苦手な人はいるものです。人に対して怒りがわいてくるとき、今日の福音を思い出してみるのもいいでしょう。                (柳本神父)