9月24日 年間第25主日 マタイ20章1節~16節  気前のよい主人

 

今日の福音はぶどう園の労働者のたとえ話です。これはマタイだけに伝えられている話で、労働者への報酬から、父なる神の「気前のよさ」について語られます。

今日のたとえ話はちょっと理解できないかもしれません。朝から働いた人が夕方から働いた人と同じ報酬をもらったとしたら、そりゃあ腹がたつでしょうね。現代に実際そういうことをしたら労基署に訴えられそうです。主人が「そういう約束をしたのだ」と言ったとしても、「そういう契約自体が違法です」と言われそうです。

ではなぜイエスはこのような非常識ともいえるたとえ話をされたのでしょうか。先週の話もそうでしたが、イエスはたびたびお金に関するたとえを語られます。現代はキャッシュレスを含めてお金がモノをいう時代ですが、イエスの時代もそうだったと思われます。「金に執着するファリサイ人」ということばも出てきますし、イエスのもとを去った金持ちの青年のエピソードもあります。そのような人々にとっては今日のたとえは納得できないものでしょう。自分たちは努力してお金持ちになったと思っているからです。

わたしも神学生時代に日雇い労働をした体験がありますが、仕事を手配する人は若くて元気そうな人から声を掛けます。年を取っていて体の弱そうな人はなかなか仕事がもらえません。でも、仕事ができる体は努力によってのみ得られるものではありません。わたしは町でビッグイシュ―というホームレスを支援する雑誌を売っている人を見かけたら買うようにしていますが、その記事を読んでみるとホームレスになった理由はさまざまです。ギャンブルや無駄使いで仕事を失う人もいますが、真面目に働いていても会社が倒産したり、自分が病気になったりして仕事を失う人もいます。努力だけではどうにもならないこともあるのです。

「雇ってくれる人がいないのです」と言ったのは、残念ながら働きたくても働けない人々だったのでしょう。主人はそのような人々にも同じ報酬を与えられたのです。さらに主人は最後に来た者から順に報酬を支払います。これは「後の者が先になる」という結びのことばを表していますが、報酬を神の恵みと考えると、もらうものは同じでも、この世で虐げられている人から先に呼ばれるという、神の国のあり方が表れているといえるのではないでしょうか。

 

夕方から働いた人が1デナリオンの報酬をもらっているのを見て、朝から働いた人は同じ報酬であることに不満を漏らしました。彼らのことを「あの連中」と言っているところに本音がうかがえますね。彼らは自分とくらべて彼らが働いていないことを非難しています。放蕩息子のお兄さんと共通する考えです。けれども、神の前に立ったとき、自分を人とくらべることは神の思いに反することです。わたしたちも人とくらべるのではなく、自分に与えられた神の愛とゆるしを喜んでいただくことが大切です。    (柳本神父)