2月11日 年間第6主日 マルコ1章40節~45節 病気の人と霊的につながる

 

今週の箇所は先週の続きです。三週続けてイエスの癒しの奇跡が語られますが、今回は重い皮膚病を患っている人のいやしです。同じいやしでも少しづつ状況と内容が異なりますが、いずれもイエスの福音と深いつながりがあります。

 

「重い皮膚病」は以前の聖書ではらい病と訳されていました。その病名には差別的なニュアンスが含まれるため、現在はハンセン病と呼ばれていますが、今日の箇所の病気はハンセン病とは限らないためにこのような表現となっています。

ハンセン病の方々は長年隔離生活を余儀なくされ、厳しい偏見にさらされてきました。1943年にハンセン病の治療薬が開発され、隔離が不必要となった後も日本ではらい予防法を廃止することもなく1996年まで隔離政策が続けられました。日本の司教団もそのような状況を見過ごしていたことに対して2019年に謝罪声明を出しています。

わたしが神学生だったとき、神山(こうやま)復生病院や多磨全生園(たまぜんしょうえん)の訪問に行きました。まだらい予防法下の隔離政策の時代でしたが、入所者の方々との接触は問題なく、交流の時間を持つことができました。以前にも書いたと思いますが、全生園のある入所者の方は病気で入所されていることは一部の親族以外に知らされていませんでした。しかし、そのことを漏れ聞いた高校生の姪御さんが、家族に内緒で会いに来られたというのです。そのことをとてもうれしそうに話してくださいました。そしてハンセン病への偏見が強かった時代に、会いに来られたその姪御さんの勇気に感動しました。

入所者の方々は、園内で元気に生活されているように感じましたが、それまでには大きな苦労があったと思います。とくに社会から排除され、偏見の目で見られる苦しみは計り知れないものだったことでしょう。そのような人権侵害の歴史に学ぶことなく、わたしたちは新型コロナ流行に際しても同じような過ちを犯したといえるのではないでしょうか。

イエスが皮膚病の人に触れ、病気をいやされることはとても勇気のいることでした。伝染病として恐れられていただけでなく、病気の原因は罪や悪霊によるものだと考えられていたからです。しかしイエスは目の前にいる人を深く憐れまれ、病気が罪や悪霊の仕業ではないことを示されました。

病気になることによって日常生活は大きく制限されます。仕事や学校を休むことになり、社会生活から離れてしまいます。重い皮膚病の人はまさに社会から隔てられ、隔離される存在でした。イエスはいやしによって、社会と病人を隔てていた壁を取り払われたのです。

 

闘病生活は社会から物理的に離れてしまいますが、霊的には(心では)離れるべきではありません。イエスが福音を宣べ伝えながらいやしのわざを行われたのは、病人や体の不自由な人を中心につながっている神の国の姿を示されたからです。全生園を訪ねた姪御さんの姿にも神の国のあり方が示されています。             (柳本神父)