2月18日 四旬節第1主日 マルコ1章12節~15節 誘惑を退けられたイエスがともにいる

 

14日の灰の水曜日から四旬節が始まりました。四旬節の「旬」は上旬や旬間という言葉からもわかるように十日間を表します。4×10で四十日間、復活に向けて準備します。ただし主の日である日曜日は数えないので実際は少し長くなります。

教会の伝統では洗礼志願者の準備期間です。今日または来週に洗礼志願式が行われます。洗礼志願者がおられる教会もおられない教会でも、洗礼に向けて準備をしておられる世界中の志願者のために祈り、心を合わせて復活祭を迎える準備をしましょう。

 

四旬節の四十日間はイエスがヨハネから洗礼を受けられたのち、荒れ野で四十日の間、誘惑を受けられたことに由来します。マタイとルカでは断食をされたことになっていますがマルコでは「サタンから誘惑を受けられた」と書かれているのみです。また、マタイとルカに書かれている三つの誘惑についても触れられていません。

イエスは霊によって荒れ野に送り出されたということですが、聖家族の主日の福音でシメオンが霊に導かれて神殿でイエスに会ったという出来事を思い起こさせます。聖霊はペンテコステ(五旬祭)に初めてこの世に来たのではなく、それ以前から人々を導いてきたことがわかります。聖霊は常にイエスとともにおられるのです。

イエスはサタンから誘惑を受けられます。サタンというと、どうしても頭に角、矢印みたいなしっぽとコウモリみたいな羽根がある真っ黒い悪魔が表れて、「ふっふっふ、神の子よ、よく来たな。この誘惑に勝てるものか!」と言っているような場面を想像してしまいますが(アニメの見過ぎでしょうか)、サタンとはもともと「告発する者、敵」という意味だそうです。ですから、神から人間を引き離す力や誘惑を擬人化して表したもの、と考えるほうが自然でしょう。

イエスは神の子ですが人間の弱さを身に受けてこの世に来られたので、神から引き離そうとする心の中の誘惑と戦われました。それに打ち勝たれたのは、人間は神のほうに向かうことができるというしるしです。また「野獣」は人を襲う悪の力を表しているといえます。その中で天使たちが仕えていたというのも、神のひとり子だからお守りするという意味ではなく、神はわたしたち人間を見守り、助けてくださるということの表れだと考えることができるのではないでしょうか。これは人類に対する希望のメッセージです。

 

わたしたちはイエスのように断食をし、誘惑を退けることはできないかもしれません。しかし、回心することによってイエスのほうを向くことができます。「回心」は心を改める「改心」と意味は似ていますが、文字通り「心を回す」ことです。神さまに背を向けていた心を神の方に回すとそこにイエスが立っておられます。そうしてイエスはわたしたちの手を取って神のほうに導いてくださいます。誘惑を退けられたイエスがともにいてくださるなら、これ以上心強いことはないのです。             (柳本神父)

2月18日 四旬節第1主日 マルコ1章12節~15節 誘惑を退けられたイエスがともにいる

 

14日の灰の水曜日から四旬節が始まりました。四旬節の「旬」は上旬や旬間という言葉からもわかるように十日間を表します。4×10で四十日間、復活に向けて準備します。ただし主の日である日曜日は数えないので実際は少し長くなります。

教会の伝統では洗礼志願者の準備期間です。今日または来週に洗礼志願式が行われます。洗礼志願者がおられる教会もおられない教会でも、洗礼に向けて準備をしておられる世界中の志願者のために祈り、心を合わせて復活祭を迎える準備をしましょう。

 

四旬節の四十日間はイエスがヨハネから洗礼を受けられたのち、荒れ野で四十日の間、誘惑を受けられたことに由来します。マタイとルカでは断食をされたことになっていますがマルコでは「サタンから誘惑を受けられた」と書かれているのみです。また、マタイとルカに書かれている三つの誘惑についても触れられていません。

イエスは霊によって荒れ野に送り出されたということですが、聖家族の主日の福音でシメオンが霊に導かれて神殿でイエスに会ったという出来事を思い起こさせます。聖霊はペンテコステ(五旬祭)に初めてこの世に来たのではなく、それ以前から人々を導いてきたことがわかります。聖霊は常にイエスとともにおられるのです。

イエスはサタンから誘惑を受けられます。サタンというと、どうしても頭に角、矢印みたいなしっぽとコウモリみたいな羽根がある真っ黒い悪魔が表れて、「ふっふっふ、神の子よ、よく来たな。この誘惑に勝てるものか!」と言っているような場面を想像してしまいますが(アニメの見過ぎでしょうか)、サタンとはもともと「告発する者、敵」という意味だそうです。ですから、神から人間を引き離す力や誘惑を擬人化して表したもの、と考えるほうが自然でしょう。

イエスは神の子ですが人間の弱さを身に受けてこの世に来られたので、神から引き離そうとする心の中の誘惑と戦われました。それに打ち勝たれたのは、人間は神のほうに向かうことができるというしるしです。また「野獣」は人を襲う悪の力を表しているといえます。その中で天使たちが仕えていたというのも、神のひとり子だからお守りするという意味ではなく、神はわたしたち人間を見守り、助けてくださるということの表れだと考えることができるのではないでしょうか。これは人類に対する希望のメッセージです。

 

わたしたちはイエスのように断食をし、誘惑を退けることはできないかもしれません。しかし、回心することによってイエスのほうを向くことができます。「回心」は心を改める「改心」と意味は似ていますが、文字通り「心を回す」ことです。神さまに背を向けていた心を神の方に回すとそこにイエスが立っておられます。そうしてイエスはわたしたちの手を取って神のほうに導いてくださいます。誘惑を退けられたイエスがともにいてくださるなら、これ以上心強いことはないのです。             (柳本神父)