2月25日 四旬節第2主日 マルコ9章2節~10節 わたしたちもイエスの栄光にあずかる

 

例年、四旬節第二主日は主の変容(光輝く出来事)の箇所が読まれます。今年はB年なのでマルコの福音書ですが、マタイ、マルコ、ヨハネの三つはほぼ同じ内容です。そのうちマルコはやや簡潔に述べられています。

 

イエスはシモン・ペトロ、ヤコブとヨハネの三人だけを連れていきます。彼らがイエスの変容の証言者となるわけです。この三人は漁をしているときに招かれたメンバーですがなぜかアンデレは入っていません。トイレにでも行っていたのかな。いずれにしても彼らだけを連れて行った理由はわかりません。たまたま近くにいたのでしょうか。イエスの栄光の姿は四旬節にはふさわしくないようにも思いますね。四旬節が始まったばかりでこのような福音を読むのはどのような意味があるのでしょうか。

この箇所の前にイエスはご自分の受難を弟子たちに告げられます。ペトロがいさめて叱られた場面です。そのときにイエスは三日目に復活することも伝えられているのですが弟子たちには受難のことで頭がいっぱいのようです。それに続く箇所なので、この栄光はイエスの復活を表していると考えるのが自然です。イエスは弟子たちにご自分の未来の姿を示されたということができるでしょう。「わたしはこれから苦しみを受けるが、その先に復活の栄光を受ける」ということを示されたということでしょうか。これはこの前の受難予告ともつながる内容です。

三人の弟子たちは戻ってからこのことを他の弟子たちに伝えたことでしょう。ところが、弟子たちはこのことを理解できなかった上、イエスの十字架のときには逃げ隠れしてしまいます。ペトロはイエスとの関係を否定し、三度知らないと言います。変容の場面にペトロが連れていかれたのは、イエスの受難の際には自分を守るために裏切ってしまうペトロに人間の弱さを自覚させるためだったのでしょうか。

イエスの姿が光り輝いたときに、天から声が聞こえました。これはイエスが洗礼を受けられたときに聞こえたことばとほぼ同じです。イエスが洗礼を受けて宣べ伝えられた神の救いは、受難と復活によっていよいよ実現されるという意味があるのかもしれません。

 

イエスの変容の姿は復活の栄光を表していますが、同時に世の終わり・神の国の完成のときに王として来られる栄光の姿も示しています。これはイエスだけでなく、わたしたちの世界も、またわたしたちも主の栄光の光輝く栄光の姿に変えられるというしるしでもあります。

罪と悪、苦しみと悲しみが存在するこの世の現実は、神の国にまだまだ遠いと思われるかもしれません。しかし必ず最後には神の国の栄光が待っています。結果がわかっていると努力しないという人もいますが、むしろ結果が示されたからこそ、わたしたちは神の国の完成に向けて希望のうちに歩んでいくことができるのです。      (柳本神父)