3月10日 四旬節第4主日 ヨハネ3章14節~21節 神の光の方へ導かれる

 

今日の福音はイエスがニコデモの問いに対して語られたみことばです。ここでイエスは「新たに生まれる」とはどういうことか、ご自分の受難と救いの実現を通して語られています。四旬節に読まれるのにはふさわしい福音の箇所だといえるでしょう。

 

この朗読箇所だけを見ると、ニコデモはイエスの弟子のようにも思えますが、3章の始めにはファリサイ派で議員だったと記されています。イエスを尊敬していて「神のもとから来られた教師」と呼んでいます。預言者と認めていたのでしょうか。ファリサイ派はイエスと敵対していましたが、すべての人がイエスを嫌っていたわけではなかったようです。いうなれば「よいファリサイ人」ですね。まあ、人を「よい」「悪い」と決めつけるのは人を裁くことにあたるので差し控えた方がいいかもしれませんが…。

そこでイエスは「人の子も上げられなければならない」と十字架を表すことばを告げられます。このときに、「モーセが上げた蛇」をたとえに出されますが、これは民数記21章の、モーセが旗竿の先に掲げた青銅の蛇を仰ぎ見た者は命を得た、という話に基づくものです。蛇というと悪魔のシンボルのようなイメージがありますが、ここでは逆に命を与えるシンボルとして、さらには十字架に掲げられたイエスを表すものとして引用されています。イエスの十字架を仰ぎ見る者には命が与えられる、ということです。また、「上げられる」には「天に上げられる」ことも表されていると言っていいでしょう。

さらにそのあと、イエスは「裁き」について語られます。「裁き」というと恐ろしいことのように思いますね。街角で「死後裁きにあう キリスト」という黒地の看板を見てドキッとすることがありますが、ここでイエスは恐れさせようとしているのではありません。

光のほうへ来るか、闇のもとにとどまるかが裁きなのだ、とイエスは言われます。悪いことをする人は光を避けます。それで犯罪を防ぐために街灯や防犯灯を設置するわけですね。それに対して、「真理を行う者は光の方に来る」と言われます。でも「自分は光の方に行きたいけど、真理を行っているかと言われると自信がないなあ」と思ってしまいますよね。立派な行いをしないと光の方に行けないのでしょうか。

ここで「ファリサイ派の人と徴税人のたとえ」(ルカ18章9~14節)を思い出してみましょう。律法を守っているのはファリサイ人、不正を行っているのは徴税人です。ファリサイ人は自分のしていることを神の前に誇り、徴税人を軽蔑しました。徴税人は自分の罪深さを認め、神のあわれみを求めました。ここで徴税人が「義とされた」のは、神が自分に何を望まれるかを知っていたからです。

 

わたしたちも、神の前に自分の弱さ、罪を認め、神の愛にいやされることを求めることが大切です。それが「真理を行う」ということなのではないでしょうか。神はそのようなわたしを光の方へ導いてくださるのです。               (柳本神父)