3月17日 四旬節第5主日 ヨハネ12章20節~33節 一粒の麦はこの世に命を与える

 

四旬節も第5主日を迎え、いよいよ来週から聖週間が始まります。今日の福音も受難に向かう内容となっています。ギリシア人がイエスに会うことを願うことから始まります。

 

ギリシア人は異邦人であり、異教徒です。イエスの父である神を知らない彼らがイエスに出会いたいと思ったのは、異邦人にも救いが及ぶことのしるしであると考えられます。そこでイエスは「栄光を受けるときが来た」と言われたのではないでしょうか。もちろんこの栄光はイエスの受難を経て与えられるものです。弟子たちは異邦人がイエスのもとに来たのを見て、いよいよこの世の王となる日は近いと思ったかもしれません。そこでイエスは「一粒の麦」のたとえを語られます。

「地に落ちて死ぬ」とは、土に蒔かれることを表しています。実際は死ぬのではなく生きて育つのですが、イエスは自分を麦にたとえるためにあえて「死ぬ」という表現を使われたのでしょう。また、土に埋もれる麦は死後墓に葬られることを連想させます。いずれにしても、麦は土に落ちなければ実ることはできません。蒔かれること、つまり死ぬことによって多くのいのちを生み出すのです。

ここで「タラントンのたとえ」あるいは「ムナのたとえ」を思い起こしてみましょう。いずれもあずかったお金を使わなかった人は主人から叱られます。でも彼らはなくさないように大事にとっておいた人です。おもしろいことに、「タラントンのたとえ」では土に埋めておいた人が叱られますが、麦や種なら育つこともあったでしょうに、残念ながらお金は芽を出しません。いつまでもそのままです。これらのたとえは「神から預かったものをちゃんと使うように」という教えですが、一粒の麦も大事にとっておいたら生かされないことになります。一粒の麦はもちろんイエスを表しています。イエスは十字架上で死ぬことによってすべての人のいのちを生かされました。ここに神の救いがあります。

そしてイエスはそのような一粒の麦のあり方を、わたしたちにも求められます。それが「自分の命を愛する者はそれを失う」「この世で自分の命を憎む人は永遠の命に至る」という教えに表れています。

 わたしたちにとって、神から授かった命を大切にするのは当然のことです。それを憎むとはどういうことでしょうか。「憎む」ことは否定することではなく、自分の人生だけを大事にする生き方を変えるということです。また、この世の命を越えた永遠の命があることを信じるように教えられているのではないでしょうか。

 

このようなイエスの教えをもとに、教会ではこの世のものを汚れたものとして否定し、死後の世界だけを求めて生きることが理想であるという考え方もありました。しかし、神の国はこの世に来るものです。わたしたちの分まで命をささげてくださったイエスの愛を思いながら、この世にある神の国の芽を見つけて歩むことが大切です。  (柳本神父)