2月6日 年間第5主日 ルカ5章1~11節 恐れることはない。あなたは人間をとる漁師になる

 

イエスはガリラヤの会堂でイザヤ書を朗読されたあと、宣教を始められます。今日の福音では最初に弟子たちを招かれた様子が描かれています。

 

ゲネサレト湖はガリラヤ湖のことです。そこでイエスはシモン(ペトロ)の舟の上から群衆に教えられます。そのあとイエスは漁をするように言われるのですが、漁師たちは一晩中漁をしていたのに魚をとることができませんでした。ガリラヤ湖では魚は夜に浅いところに上がってくるため、漁をするのは夜中だそうです。それで「夜通し苦労して獲れなかったのに日中の今はとれるわけがない」と考えるのが漁師としては当然でしょう。

夜の漁といえば、わたしも以前、イカ漁に連れて行ってもらったことがあります。イカ漁も日が暮れてから、電球を煌々とつけてイカをおびき寄せます。「いっぱいとれるからイカ刺し食べ放題ですよ~」と言われていたのにとれたのはたった一匹。それでもとれただけ彼らよりはましだったのかも。イカ刺しは一切れだけいただきました。

それはともかく、シモン・ペトロは漁師としての常識を捨ててイエスの言葉に従います。シモンは自分の舟から群衆に教えられたので、当然イエスの話を聞いていたはずです。それで「この人の言葉には力がある」と感じたのかもしれません。そしてとれた魚に驚き、イエスについて行くことになります。一緒に漁をしていたヤコブとヨハネも従い、彼らは弟子となりました。

マタイとマルコの福音でもイエスは漁をしていた彼らを弟子にします。そこにはルカには書かれていないシモンの兄弟アンデレも登場しますが不思議な大漁の話はありません。彼らはいきなり現れた「人間をとる漁師にしよう」というイエスの言葉に従うのですが、話を聞いて従ったというルカの福音のほうが事実に近いような気がします。

このイエスの招きの言葉「人間をとる漁師にしよう」は、一般の人々を一網打尽に集めるというイメージがありますが、イエスの意図はそうではなく、彼らが漁師だったのでそのように言われたのでしょう。イエスのもとに大勢の人々とともに集まるためのお手伝いをするのが宣教ですが、それを漁にたとえられたようです。

 

イエスが弟子たちを選ぶ基準は何だったのでしょうか。宣教にふさわしい人格や能力を求められたのでしょうか。しかし、福音を読んでみると、失礼ながら弟子たちが常にふさわしいふるまいをしていたとは考えられません。確かなことは、彼らはイエスの呼びかけに従ったということだけです。

わたしたちもイエスに招かれた弟子の一人です。そしてわたしたちもイエスの弟子にふさわしくないと思うかもしれません。けれどもイエスはペトロに言われたように、罪深いわたしたちにも「恐れることはない」と言ってくださるのです。     (柳本神父)