5月15日 復活節第五主日 ヨハネ13章31~33節a、34~35節 今や、栄光を受けた

 

復活節第五主日と第六主日の福音は毎年ヨハネの福音から同じ箇所が朗読されます。この箇所はイエスが最後の晩さんの席で弟子たちに話された長い説教の一部です。

とくに今日の部分は、イエスが弟子たちの足を洗ったのちに、ユダが出て行きました。そのあとに語られた言葉として伝えられています。

 

ユダが出て行ったのは、もちろんイエスを売り渡すためです。ということは、イエスの受難の始まりであると言ってもいいでしょう。そのときにイエスは「今や、人の子は栄光を受けた」と言われました。もちろん、受難のあとに復活の栄光が現れるのですが、受難を前に「今や」と言われるのはちょっと不思議に思いませんか。(「今や」というと関西弁みたいですね)。

わたしたちは「栄光」というと華々しく輝いているイメージがありますが、もともとは「本来のすばらしさが輝き出ること」という意味だそうです。ヨハネ福音書では受難をこの意味で使っているということですが、ではなぜ受難が「すばらしい」のでしょうか。

もうお亡くなりになられましたが、京都の西陣教会の信者で橋爪さんという画家の方が漢字の「愛」という字をくずして十字架のイエスの姿をかたどり、色紙に描いておられました。どこかの教会でご覧になった方もいらっしゃるかもしれません。そのとおり、イエスの十字架はまさに愛の姿だったのです。わたしたちの罪の赦しのためにご自分の命をささげてくださった御子イエス。最愛の御子をわたしたちのために与えてくださった父なる神。十字架のイエスの姿に、すばらしき神の愛が輝き出ているということができるのです。ですから、受難の始まるときにイエスは「今や」と言われたのです。

そして、イエスは続けて「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と告げられます。同じヨハネの福音では、最後の晩さんの席でイエスは弟子の足を洗い、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と言われました。ここではそれが「互いに愛し合う」という意味であったことがはっきりと示されています。「わたしが愛したように」の「愛」はイエスの十字架によって輝き出たのです。

 

今日の福音の最後にイエスは「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と言われます。これは単に、自分たちが愛し合うことによって、みんなの模範になりなさい、という意味ではありません。「互いに」のうちには弟子以外、つまり信者以外の人々も含まれているのです。

「イエスの弟子」はイエスの愛を伝える者です。イエスからいただいた愛を分かち合うことによって、みんなが神の愛を知るようになります。神はわたしたちを愛しておられるのに、その愛に気づいていない人々が大勢います。わたしたちがイエスの愛を分かち合うことによって、この世に神の愛が輝き出るのです。           (柳本神父)