5月8日 復活節第四主日 ヨハネ10章27~30節 わたしは羊を、羊はわたしを知っている

 

復活節第四主日は毎年ヨハネ10章から羊と羊飼いのたとえが朗読されます。といっても同じ個所ではなく、三つの部分に分けて朗読されます。今週はその最後の部分です。朗読箇所は短いですが、羊飼いと羊のたとえでキリストと私たちとの関係性を表しています。しかし、これは受難と復活の前に語られた言葉です。それが復活節に読まれるのにはどのような特別の意味があるのでしょうか。

 

みなさんは羊を見たことがありますか?幼稚園で聞いたところ、「あるー!」と答えたのでどこで見たのかと思って聞いてみたら「うだアニマルパーク」でした。ちなみに滋賀ブロックの幼稚園で聞いたとこときには「ブルーメの丘」でした。最近はこのようなテーマパークで羊を見ることができるのですね。

わたしが子どものころは個人的に飼っている人もいたようです。幼いころ叔母が入院していた京大病院で「裏庭に綿羊がいるから見ておいで」と言われたのをおぼえているくらいです。わたしは「綿羊」が何のことかを知りませんでしたが。はて面妖な。

イエスは「羊を知っている」と言われますが、「知っている」のは羊を見たことがあるとか、どんな動物か、という意味ではありません。もっと深い関係です。羊は同じような顔をしているようですが、羊飼いは羊の見分けがつくそうです。

またまた鹿の話で恐縮ですが、奈良公園にいるたくさんの鹿の中でも、前に書いた「ほくちゃん」のように、何匹かはわたしにも見分けがつくようになりました。わたしも多少は羊飼いの気持ちがわかるようになったようですね。

イエスは、「わたしについてきなさい。みんなまとめて面倒見てあげましょう」という羊飼いなのではなく、一人一人の名前を呼んで、その人の性格や考え方をよく知ったうえで連れ出す羊飼いです。それがイエスの言われる「知っている」ということです。

羊も羊飼いの声を聞き分けるというのですから、お互いがよく知って結ばれている関係です。朝わたしが春日野に行くと、小鹿の「ほくちゃん」もわたしを見つけて来てくれます。どのように見分けているのかはわかりませんが、彼にとってわたしはよい羊飼いならぬ「おせんべいをくれるよいおじさん」なんでしょうね。鹿はともかく、イエスと弟子たち、そしてわたしたちは互いに呼び合う分かちがたい関係だということです。

 

復活節第二主日と第三主日の福音朗読は復活されたイエスと弟子たちとの出会いでした。イエスが復活されたときにはまだ復活を知らなかった弟子たちも、徐々にイエスの復活を信じるようになっていきます。そして彼らにとって復活の主こそは信仰のよりどころであり、分かちがたい存在となったのです。そのように、イエスの復活は父なる神と子であるイエス、そしてわたしたちを結び合わせてくださった出来事です。それでわたしたちは今日、羊飼いと羊のたとえを通して神との分かちがたい関係を学ぶのです。 (柳本神父)