7月3日 年間第14主日 ルカ10章1~9節 何も持っていなくても大丈夫

 

今日の福音で、イエスは72人の弟子を宣教に派遣されます。これは先週に続く箇所です。弟子の派遣はこのほかにルカの9章、マタイ10章、マルコ6章に記されています。細かいところは異なりますが、ほぼ同じ趣旨で語られています。

ところで、今日の福音の箇所は、エルサレムの受難に向かう厳しい状況の中での出来事とするにはふさわしくないようにも思われます。ルカ9章の派遣と大きな内容の違いがないので、同じ出来事が二回に分けて記されたものと考えるのが自然なようです。

ルカ9章の派遣が12人であるのに対して、この10章では6倍の72人となっています。9章から10章の間にいきなり弟子が増えたとは考えにくいので、イエスの受難と復活の先には多くの弟子が世界に派遣されるということを表しているのかもしれません。

 

四つの箇所のどの派遣にも共通するのは、イエスの「何も持って行くな」という注意です。では旅先ではどうすればいいのでしょうか。それは、イエスが言われるように、迎えてくれた家で世話になり、食べ物や生活に必要なものを与えてもらう必要があります。さらに「家から家へと渡りあるくな」ということですから、かなり仲良くなって信頼関係を築かなければなりません。それで、「もし受け入れられなかったらどうしよう」と思う弟子も多かったのではないでしょうか。

けれども心配はご無用。イエスは「ご自分が行くつもりの町や村に」弟子たちを送られました。これはイエスの宣教の橋渡しをすることですが、実はすでに弟子たちの宣教にイエスがともに働いてくださっていたのです。先々週のキリストの聖体の主日の福音でイエスのみことばを聞くために集まっていた多くの人々のように、あちこちの町や村の人々も、イエスのみことばを弟子たちの口を通して聞くのを待っていたことでしょう。

そして、「何も持たない」ということは、貧しくなるということです。イエスのみことばを求めていた多くの人々は貧しい人々でした。そのような人々と福音を分かち合うためにイエスはまず、貧しくなることを求められたのではないでしょうか。そして、「貧しさ」には経済的な意味もありますが、マタイの福音の「心の貧しい人々は幸い」にあるように、精神的な意味もあります。神の愛に飢え渇く人々に共感し、思いを共有することが求められていたのです。

 

イエスの派遣はわたしたちにも与えられています。「わたしなんかに宣教ができるのか」と思われるかもしれません。でも、イエスは何も持たなくてもいいと言われます。知恵も、知識も、能力も、話術も必要ありません。助けてあげる財力もいりません。信仰が足りなくてもかまいません。足りない分はイエスお任せすればいいのですから。

こうしてみると、イエスの福音はすべてつながってるんやなあと感じます。心も信仰も貧しいわたしたちを、近くで待っている隣人がおられるはずです。    (柳本神父)